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第64回 西園寺家ー閑院流藤原氏の不思議

西園寺・三条・徳大寺・洞院などの名家は、平安中期の藤原師輔にまで源流を遡ります。
道長の祖父でもある師輔は豪放磊落・策略家で自分の望み通りにしたい人でした。長生きしてれば冷泉・円融天皇の外祖父でもあるし、摂政関白・太政大臣を独占していたでしょう。
師輔は正室など複数の妻がありながら、内親王と結婚したいと言って、叔母の皇太后穏子に贔屓されているのをいい事に、醍醐天皇の皇女勤子内親王を密通同然にして結婚してしまいます。臣下が内親王を娶ったのは史上初という事です。(遠祖良房は嵯峨天皇の皇女潔姫を一旦源潔姫として貰いました)しかし勤子はやがて亡くなり、師輔の同妹雅子内親王を娶ります。

954年8月、雅子内親王が45歳で亡くなると、47歳の師輔は今度は后腹で未婚の36歳の康子内親王に目を付けます。内親王の母穏子はその年の1月、70歳で亡くなっていました。
お付きの女房たちに金品をやれば中に忍びこむのは簡単です。『伊勢物語』の業平が高子を『源氏物語』の柏木が女三の宮に忍びこんだのも女房たちの合意があったからです。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」でしょうか?

翌年、康子内親王はひっそりと男児を産みます。この男児は闇から闇へ行き、東寺の僧・深覚となりました。

ある嵐の夜、時の村上天皇は9つ上の同母姉・穏子内親王が心配となって近くにいた左大臣・実頼(師輔の異母兄)に様子と見に行ってくれと頼みます。すると実頼は、
「雨で、お前が汚れているので無理です」
と言います。お前とは庭の事ですが、隠語で陰部もさします。聡明な村上天皇もそれで察したという話があります。(『大鏡』)

957年6月、39歳の康子内親王は2番目の男児を産んで亡くなります。
内親王は歌が苦手だった様で遺っていないのですが、手先は器用でまめだったらしく、唐櫃に、師輔のために作った襪(しとうず:足袋)があったそうです。
母を亡くした子は、宮雄君と名付けられ、師輔の娘の皇后安子(31歳)が引き取り他の皇子女と共に育てました。これが閑院流の祖・公季です。
公季より3つ下の円融天皇は回想で「公季は自分が臣下であるという事を分かっていたのだろうか。ずいぶんひどい事をされた」(『大鏡』)で語っていますが、小さな子なので、パシンと叩いたりしたのかも知れませんね。食膳は少し低めにして区別していた様です。

公季は殿上人となり閑院を伝領し、娘義子を一条天皇に入内させましたが、皇子は産まれませんでした。しかし太政大臣にまで出世しました。
しかし子の実成が中納言、孫の公成が権中納言としだいに衰運のきざしが見えてきました。
公成の妹が、当時摂関家嫡流の頼通に対抗した異母弟の能信と結婚したのが転機になります。
子のいなかった能信が、公成が亡くなって遺児の茂子を養女とし、後三条天皇の東宮時代の妃として、後の白河天皇が生まれたのです。

更に公成の子、実季は娘を堀河天皇の女御として鳥羽天皇が生まれます。
当時摂関家の師通が早死にして、後継ぎの忠実が若かったので、白河法皇の従兄弟でもある閑院流当主の公実が摂政を望んで、法皇もどうしようかと思っていたら反対され、摂関家はそのまま存続。失意の公実は55歳で亡くなりました。
しかし公実の多くいる男子たちがそれぞれ三条・西園寺・徳大寺と分立していきます。末娘の璋子は白河法皇の養女となって溺愛され、崇徳・後白河天皇の生母となっています。

西園寺公経以来、特に西園寺家の勢力は突出して鎌倉時代を制覇しました。しかし南北朝時代になってさすがに衰えましたが、命脈を保ちました。

そして明治になって子孫に西園寺公望が現れ、20世紀初頭、桂園時代として約10年間交替で総理大臣となり、また日本政治史を彩るのでした。
しかし、大昔、師輔が康子内親王に手を出さなかったら、この様な歴史もないのかと思うと不思議ですね。

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