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第77回 建春門院新大納言(3)

京に戻った六代は、約束通り文覚のいる高尾の神護寺に住まいます。しかし新大納言のいた大覚寺の北の辺りと、地図を調べると直線では2キロ程ですから行き来はしてたでしょうね。山道ですけど。
斎藤五・六兄弟がなぜあんなに忠義だったのかと調べると、維盛の家人だったのですね。平家から源氏に寝返る武人もたくさんいたのに斎藤実盛といい子供の五・六(養子だったという説もあり)は律儀ですね。本当は五郎・六郎でしょうが、『平家物語』は短縮してまとめて五・六と言ってます。

文覚はなぜか六代をなかなか出家させません。六代が美貌だったから?
母親の新大納言としてはまた鎌倉方に邪推されないかと早く出家をという事で1189年、17歳で出家します。父維盛が三位だったので「三位禅師」などと呼ばれる様になりました。また本当は高清という名前でしたがこれまた『平家物語』は幼名の六代でずっと通しています。

出家した六代は念願の高野山に行き、父が入水した那智の浜を見に行きます。斎藤五・六も同行します。
高野山には滝口入道がいました。そういえばこの人も元は「斎藤時頼」と言いますから斎藤一族だったのでしょうか。
滝口入道自身も身分違いで結婚を反対された横笛との悲恋を経験していました。また1184年の維盛入水にも立ち会っています。滝口入道は維盛の父重盛に仕えていたのでした。

1190年頃、新大納言(31歳)は、頼朝と親しい吉田経房(49歳)と再婚します。今回分かったのですが、経房の祖先を辿ると、紫式部の夫・藤原宣孝の先妻の子・隆光に行きつきます。隆光というのは父の死後、紫式部に言い寄ったという言い伝えもある人です。またnote『源氏物語誕生の秘密』と繋がりました!
経房がなぜ頼朝と親しかったかというと、二人とも上西門院(後白河法皇の姉)に仕えていたとか、経房が伊豆の国司をしていて、同じ伊豆の北条時政と懇意であったとかいう説があります。
想像ですが、新大納言は31歳といえどまだまだ美貌。経房が頼朝に頼んだ?新大納言も六代の件では頼朝に恩義があるし、結婚を承諾したのかも知れません。16歳の娘(夜叉御前?)も連れていきます。

夜叉御前はいつか分かりませんが、経房の娘が産んだ2つ下の滋野井実宜(閑院流藤原氏)と結婚します。夜叉御前も美貌だったでしょう。
この約10年くらいが新大納言にとって平穏な時代だったでしょう。

1199年1月、事態は急に暗転します。
1月13日、源頼朝は前年末の落馬が元で亡くなります。享年53.
すると京では親幕派と反幕派との対立が激しくなり、2月、反幕派の土御門通親が襲撃され、下手人が逮捕されます。
その混乱の中で、日頃「帝(後鳥羽天皇)は遊んでばかり、守貞親王の方が学問・政道に優れている」と公言していた文覚は謀反と言うことで逮捕され、佐渡に流されます。(『平家物語』では隠岐に流されたという事になっていますが、これは後年、後鳥羽上皇が隠岐にながされた事を符合させているのでしょう)

最大の庇護者・文覚が流罪となってしまっては、六代の命はありません。京からまた連行される時、きちんと新大納言と別れができたでしょうか?斎藤五・六はもちろんついて行きます。
鎌倉の18歳の2代将軍頼家は、平家の嫡流という六代を快く思っていなかったでしょう。源氏の嫡流という自負と対抗意識があったので。

六代は3月、相模国田越(たごえ:逗子市:年代場所諸説あり)で、処刑され27歳の生涯を終えました。斎藤五・六も見届けた上で出家しました。

六代の曽祖父にあたる藤原俊成は存命でしたがどう思ったでしょうか?
新大納言の悲しみは言うまでもありません。そして頼朝の庇護を受けていた夫経房も体調が悪くなり、翌(1200)年閏2月、59歳で亡くなってしまいます。
悲しみは続きました。娘婿である滋野井実宜は、1203年突然、夜叉御前を離別し、時政の娘と結婚したのです。1203年といえば、比企氏を滅ぼして時政が初代執権となった時。落ちぶれた平氏の娘を捨てて、日の出の勢いの北条氏の娘に乗り換えたのでしょうか?かつて土御門通親がよくやった事です。今でも仲が良かった同僚の女性を捨て、社長の令嬢と結婚したとか、糟糠の妻を捨てて別の女性と再婚したとかは聞く話ですね。

傷心の夜叉御前でしたが、1206年、一族の平親国(42歳)と再婚します。しかし親国は三位ながら参議になれないのを気に病んで1208年正月に亡くなってしまいます。短い結婚生活でした。

運命に翻弄されたこの母娘のその後の消息は分かっていません。どこかでひっそりと心静かに生きていた事を信じたいです。

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