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第127回 彰子と頼通の死

東宮生活24年。そして在位5年。数々の革新的な政治をして譲位してから僅かに5カ月で後三条上皇は40歳で崩御しました。
白河天皇が真っ先にした事は、亡き母茂子に皇太后を追贈する事でした。后になる前に亡くなったので。そして大恩ある能信に正一位・太政大臣を追贈しました。夫人の祉子(よしこ)にも正一位を贈りました。
「大夫殿(能信)がいなければ朕も帝位に即いていたかどうか」
白河天皇は言いました。東宮大夫として能信は、隙あらば廃太子に追い込もうとする頼通から身体を張って守ったのです。

その頼通も高齢から病の床にありました。
翌年2月2日、前関白太政大臣・頼通は83歳で亡くなりました。50年以上摂政・関白を務め、父道長と共に摂関家の全盛と謳われました。しかし頼通の人生の後半は明らかに下り坂でした。
「まろは父上の遺産を食い潰して生きてきたのかも知れない」
微かな後悔が襲いましたが仕方ありません。宇治の平等院を遺して頼通は薨去したのです。

そして頼通と共に摂関家全盛を支えた姉・彰子も死期が迫っていました。
ところで白河天皇(22歳)は女御の賢子(18歳)を寵愛していました。何とか后にしたいのですが、最初3名の定員だった筈の后は4人になりましたがそれでも今は埋っています。
白河天皇は裏ワザを使いました。太皇太后の章子内親王(後冷泉天皇の后9を二条院に格上げし、皇太后寛子(後冷泉天皇の后)を太皇太后、皇后歓子(後冷泉天皇の后)を中宮、中宮馨子内親王(後三条天皇の后)を皇后とし、空いた中宮の座に賢子を据えたのです。
後冷泉天皇に大人の事情で同時に三人もの后が居たのも奇異ですが(本来なら后は一人、妃はたくさんいてもいいです)、白河天皇の執念が感じられます。

白河天皇と中宮となった賢子は、曽祖母である大宮彰子を見舞います。彰子は若いひ孫夫妻を見て、かつての一条天皇と自分の姿を思い描いたでしょうか?賢子は懐妊が分かった所でした。

そして彰子も完全に病の床につき、10月3日、87歳で亡くなります。傍には紫式部の娘の賢子(76歳)が付いていたと思われます。

12歳で受在してから足掛け76年。皇室と摂関家を繋いできた、日本の女王の終焉でした。(続く)


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