第114回 『栄花物語(正編)』完成と異議
道長の死の翌年から赤染衛門が書き始めた『栄花物語』(だいぶ後で続編ができますが、その時はこれで終わりという認識)が足掛け8年で長元8(1035)年、30巻の大作で完成したと言われます。
長元8(1035)年、7月に頼通の後継者通房が11歳で元服したので、慶事に合わせて発表されたのでしょうか。
赤染衛門はその頃80歳くらいと推定されます。しかし頭も筆も冴えていました。赤染衛門の力作に、かつての主人倫子・彰子以下多くの人が賛辞を送りました。
しかし、中身を読んで、異議を秘かに唱えた人がいた筈です。それが後に『大鏡』作成へと発展していくのです。
公には異議は出て来ません。命取りになるので。今は自由に評価されています。
『栄花物語』は絶賛ばかりで批判がなかったのです。私も昔は、なぜほぼ同時期に同範囲の歴史物語が二つあるのか不思議でした。
差し詰め、道長に対抗してきた右大臣実資(79歳)あたりは首を傾げたはずです。実資は反主流派の筆頭である能信(41歳)に声をかけたかも分かりません。
問題の箇所はいくつかありますが、最大のものは巻二の「花山たづぬる中納言」です。歴史的事実として、陰謀家・兼家が孫の東宮(後の一条天皇)の即位を早くしたいために、愛する女御を亡くして悲しむ花山天皇を在位僅か2年で退位に追いやったのです。息子の道兼を使って「私も一緒に出家しますから」と騙して。
実資は花山天皇の蔵人をした事もあり、その時の事はよく覚えていました。これが後世伝わると、兼家や道兼の悪事は消えてしまいます。しかし兼家ー道長ー頼通と続く権力者のライン。下手な事をすると流罪ものです。
実資は能信には巻一の中で、能信の外祖父・源高明が左遷された事は触れずにただ「為平親王が東宮になれなかった」としか書いてない事を指摘します。事実は為平親王に娘を妃としている高明を警戒した藤原氏が謀反を捏造し左遷したのでした。能信はこれには怒りを感じたと思います。
『栄花物語』正編は赤染衛門、続編10巻は出羽の弁や周防の内侍などの名が挙がっていますが、『大鏡』は何と作者の候補者が10名近くおり、絞り切れていません。内容が藤原氏批判を含むため、明かせなかったのでしょう。しかし能信はそれには勿論入っています。
「歴史の真実を伝える鏡」-そういう意味で『大鏡』は作られたと思います。
花山天皇の退位にしても『大鏡』ではきちんと「花山院の出家」として道兼に騙されて連れていかれる場面が描かれ、現代でも古文受験の講義としてもよく取り上げられています。安和の変も露骨には書いてないですが、「ひどい事件があった」と匂わせています。
その他、兼通・兼家の凄まじい兄弟喧嘩など赤裸々に描かれています。これは実資が養子となっていた時、祖父の実頼から聞いた、更に実頼は父の忠平などから伝聞した話が元になっているのかも知れません。
道長に対しても『大鏡』は一応賛美ですが、小一条院の連絡係であった女房を邪魔した時などは、意地悪く嘲笑う場面が描かれたりしています。小一条院の東宮辞退も『栄花物語』は自発的に辞退した様に描かれていますが、『大鏡』では道長の圧迫があった事が記されています。
何か赤染衛門の手落ちの様になってしまいましたが、しかし『栄花物語』は姉であり、『大鏡』は弟です。『栄花物語』がなければ『大鏡』も出て来なかったかもしれないと思います。(続く)
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