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第117回 それぞれの悲喜こもごも

長久元(1040)年12月、皇后の禎子内親王(28歳)はほぼ4年ぶりで参内し、夫の後朱雀天皇(32歳)と再会します。
前年に、頼通の養女の中宮嫄子が亡くなって障壁がなくなったからとも言えます。3人もの皇子女を成した2人はどんな会話を交わしたでしょう。

翌年正月1日、道長と同い年であった権大納言公任が76歳で亡くなります。多彩な才能を持つ公任でしたが、道長の下風に立つ事が多く、自分の娘が道長の息子教通と結婚したのが嬉しくて、同じ小野宮流の従兄・実資に長々と自慢して実資を閉口させています。晩年は思うように官位が上がらず、いらいらして自邸に閉じこもる事も多かった様で、少し軽々しく見えながら葛藤していたこの人をまた研究してみたいですね。

3月には入道修子内親王(46歳:皇后定子の皇女)が久々に参内し、大宮彰子と会談しています。翌年に養女にしていた延子が入内するのでその相談でしょうか?独身だった修子内親王は高松方の頼宗の娘を養女にしています。何故かな?と思ったら頼宗の妻はあの伊周の娘ー修子内親王とは従姉妹ーだからでしょうか。
8月には小一条院敦明親王が出家します。

この年には赤染衛門に曾孫・匡房が生まれ、喜んでいるのでこの年まで衛門の生存が確認されています。この時、推定85~6歳。

翌長久3年3月に、高松方頼宗の娘延子(18歳)が入内します。頼宗は頼通に反抗的な弟・能信と違って協調的だったので許されたのでしょう。

11月に9歳の尊仁親王の読書始めが行われましたが、その聡明さに周囲は驚くのでした。
51歳の頼通にまた男児が生まれます。しかしこの男児は師実となって将来、摂関家の後継ぎとなるのでした。

もう1つだけ!
長久4年6月。閑院流藤原氏(道長の叔父公季の子孫)の権中納言公成が45歳で亡くなりました。公成は娘茂子(10代前半?)を遺していました。
ここで公成の姉を妻としていた能信は子がいない事もあり、妻の姪・茂子を養女として引き取ります。能信には考えがありました。10歳になっていた尊仁親王の将来の妃にしようと思っていたのです。結局、茂子は白河天皇を産む事になります。(続く)


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