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第66回 陽成天皇退位

乳母子の源益を事故死させてしまった陽成天皇(16歳)は苦しんでいました。事件の6日後に行われる筈だった新嘗祭は何故か中止されています。
同じ日(11月16日)、憂愁に沈む陽成天皇を慰めようと、小野清如(きよすけ)・紀正直の近習が宮中に馬を連れて来て天皇は乗馬をし、気を少し晴らせます。しかし禁中で馬の飼育はいけない筈で、昨今の歴史書には「事もあろうに禁中で馬を飼っていて・・」ととんでもない事をしたかの様に書いてあるのもありますが・・・

この陰には、もちろん宮中を取り仕切っている尚侍・淑子の許可があった筈です。だいたい高子の異母姉である淑子はどんな積りだったのでしょうか?
ここで私はスター・江利チエミさんと異父姉のトラブルを思い出します。チチエミさんの実母が亡くなる時、「貴女には父の違う姉がいる」と言い遺したそうです。ほどなく現れた異父姉は家政婦として入り込み信用を勝ち取ると実印を使って2億円以上を散財したと言います。1970年頃の2億ですから相当な額です。家も全焼し、宝石などの財産を失いました。チエミは断腸の思いで姉を訴え逮捕されます。捕まった異父姉はやった理由として「同じ姉妹なのに小さい時からスポットライトを浴びる妹が憎かった。健さんとも離婚させた」と述べました。兄弟・姉妹は最初のライバルと言いますがげにおぞましい事件でした。チエミさんはその後、4億円に膨れ上がったと言われる借金を必死に働いて返したと言われます。私は中学から高校時代でしたが、そう言えば、教師役・母子家庭で元気に働く役など様々な役を見た様な気がします。記事に「キャバレー回りを天下のチエミがしなくてもいいのではないか」に「頂くお金は一緒だから」と答えたとあります。今になって意味が分かります。そして江利チエミさんは1982年、45歳で亡くなりました。

淑子が異母妹高子に嫉妬していたとしても不思議ではありません。美男業平を恋人とし、国母・皇太后と崇められる妹。しかし追い落とし、自分の養子が代わって帝になる日が来るのです。

沈黙の日々が2か月ほどたった翌年2月4日、ずっと里居していた基経がいきなり参内し、まず宮中で飼っていた馬と飼育していた二人を放逐します。これは若い陽成天皇にとって衝撃だったでしょう。また自分のせいで二人の家来に迷惑をかけたのですから。
そして天皇に謁し、何事かを相談します。恐らく侍従の死などの責任をきつく問うたのでしょう。そして陽成天皇は退位の宣命(せんみょう)を書き、基経に預け、用意された二条院へ遷ります。それを聞いた母后・高子も後を追って二条院へ行きます。「二条の后」と後年言われるのはそのためです。

その時、二条院は桜が満開だったと言います。運命に翻弄された母子はひしと抱き合ったことでしょう。(続く)

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