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第121回 大江挙周(たかちか)の死と東宮妃入侍

実資の死の5カ月後の永承元(1046)年6月、大江挙周が亡くなりました。赤染衛門が愛した長男です。没年は分かりませんが衛門が生きていれば90歳ほどなので60歳代でしょうか?赤染衛門は5年前に曾孫匡房の誕生を喜んだとの記録がありますが、それ以後の消息は不明です。

赤染衛門と挙周と言えば、1023年に挙周が重態に陥って、70歳前の母衛門が住吉明神に歌を奉納しています。
「かはらむと祈る命は惜しからで さても別れむことぞ悲しき」-身代わりになろうと祈る命が惜しいのではなくて、それでも結局死に別れる事が悲しいのだー身代わりで死んでもいい、でもそうすれば貴方とはもう会えない。母心ですね。結局挙周は全快しめでたしめでたしでした。

7月には、入内していた、亡き後一条天皇の皇女章子内親王(21歳)が、後冷泉天皇(22歳)の中宮となりました。恐らく大宮彰子の指示でしょうが。息子の子供同士が結婚し、また未来の天皇を産んでほしいと思ったのでしょう。章子は不妊でしたが。

12月19日には紫宸殿で、東宮尊仁親王(13歳)の元服が行われます。後冷泉天皇臨御で、関白頼通・教通の鷹司方、頼宗・能信などの高松方など勢揃いです。それぞれの思惑が垣間見えたことでしょう。
即ち、頼通は父道長同様、自分とは薄い東宮の廃立を虎視眈々と狙っているし、能信の方は是が非でもそうさせないという気力が見えたと思います。

元服式の2日後、能信の養女茂子(年齢不明)が入侍とありますから、恐らく宮中ではなく、禎子内親王も住まう閑院の方に嫁入りしたのでしょう。
東宮がまだ若すぎるのですが、能信は皇子誕生を祈願した事でしょう。その朗報は7年後、貞仁親王(後の白河天皇)の誕生によってもたらされるのでした。(続く)

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