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第84回 道真ついに左遷!

昌泰(しょうたい)4(901)年正月7日、道真は従二位に叙せられます。これは位を上げて道真や法皇派を油断させる目的があった様な気がします。
そして正月25日、謀反の意図ありとして道真は突如として右大臣から大宰権帥(ごんのそち)に左遷されます。

道真はすぐに宇多法皇に助けの歌を送ります。
「流れゆく我は水屑(みくず)となりはてぬ 君しがらみとなりてとどめよ」
しかしこの悲痛なSOSの歌に対して宇多法皇は何故かすぐには行動を取りませんでした。ドラマやアニメでは二人が対面したかの様に描いていますが、検非違使などがいて物理的にそれは無理だと思われます。
そして5日が空費され、明日はもう出立という前日の30日、宇多法皇は左衛門の陣に行きます。しかし内裏には入れて貰えませんでした。邪魔したのは藤原菅根でした。菅根もまたかつて道真から笏(しゃく)で打たれるという事があって恨んでいたという事です。

かつて陽成上皇が、母高子が廃后となるのに抗議して内裏へ入ろうとした時、「帝の勅命により入る事はできません」と拒否されたのと同じ事を今度は宇多法皇自身がされたのでした。半日ほど粘った後、宇多法皇は帰ります。
なぜ5日後に行ったのか?これは今でも謎です。私は拙著で、新しく腹心となった忠平が「この事は後世に絶対残ります。法皇様が何もしないとなると悪評になります」と促されたとしました。
結局2月1日、道真は幼い子供たちと共に大宰府へと出立します。成人した男子もそれぞれ流されます。邸を去る時にちょうど梅の花が満開なので道真はまた歌を詠みます。
「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ(忘るな 説もあり)」

京から出て山崎で出家をし、道中で道真はまた宇多法皇に対して歌を詠みます。
「君が住む宿の梢(こずえ)をゆくゆくと 隠るるまでも返り見しはや」
ー法皇様が住んでいる邸の梢を、道を行きながら、隠れて見えなくなるまで振り返って見たことだよー

宇多法皇はこの時35歳。何を思っていたでしょうか?大宰府に援助したという記録は見えません。「とうとう左遷されてしまったか」とでも思ったのでしょうか。とにかく次の腹心・忠平を対抗勢力に育てなければなりませんdした。(続く)

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