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第111回 紫式部の死ーnoteは続行します。

紫式部の生年が諸説ある様に、没年説も1014年から1031年までさまざまです。私は角田先生の1031年説に賛成します。
根拠の一つとして、『続後撰和歌集』に所収されてる歌に、
「 東北院の渡殿の遣水に、かげを見て詠み侍りける
                   紫式部
 影見てもうき我涙おち添ひて かごとがましき瀧の音かなー遣水に映る姿を見るにつけても、辛い我が身の上を思って流れる涙が遣水に加わって、この涙のせいだと恨むかのような滝の音よー」
実はこの歌は『紫式部集61番に「土御門院にて」で同じ歌が収録されているのでまた混乱を呼んでいます。
こちらを信じて、「東北院」だとするとこれはどこの「東北院」かという事で大宮彰子の御所の東北院で、それは長元3(1030)年8月に落成されています。香子(紫式部)はその時には生存していた?香子は、彰子に参上と宿下がりを繰り返していたのでしょうか?

そして根拠の2つ目として翌長元4(1031)年3月上旬、賢子は近親者の満中陰(四十九日)を迎えています。祖父為時はその2年前に亡くなっています。そうすると近親者は母の香子しかいません。
逆算すると、その年の正月中旬頃に『源氏物語』の作者で名高い紫式部は62歳で亡くなったと思われます。
喪が明けた賢子は9月の彰子の住吉神社・石清水八幡宮への参詣に同道しています。もちろん香子の名前はありません。

さて、当初は香子の死を持って最終回としようと思っていたのですが、励ましの声もあり、私自身、『栄花物語』や『大鏡』の構想もありますので、もうしばらく習作させて頂きます。ご了承下さい!(笑)その後、『原爆誕生と戦後』秘話に移行します。

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「こんな事知らなかった!」とか「あれが本当なら怖ろしいね」との感想も頂いております。真珠湾攻撃はアメリカの誘導だったとか、原爆投下の巧妙な示唆など少しタブーな領域に入ってますが、私の仮説の推理をお読みになってご意見下さい!

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