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エビデンスはどこまで可能か?:EBMを実践するということ

 薬の適正使用と言えば聞こえは良いですけど、「適正」ってなんでしょうか。適切で正しいというような薬の使い方が本当に存在するのでしょうか?さしあたり本稿の議論の出発点はここにあるように思います。

 数年前から関心を集めだしたポリファーマシー、いわゆる薬の多剤併用をめぐる問題群の中でも、繰り返し「薬の適正使用」が強調されてきました。高齢者の薬物療法では、ベンゾジアゼピン系薬剤、プロトンポンプ阻害薬、NSAIDSなどの漫然投与が問題視されたり、心血管疾患に対する一次予防目的のスタチン系薬剤や低用量アスピリンをいつまで飲み続けるのか、という視点で適正使用が語られることも多いでしょう。

 むろん、こうした薬剤が理由もなく漫然と投与されているのは、ほとんど不適切だと思っていますし、不適切だという判断はほとんど正しいと思います。ただ、患者さんの文脈や背景によっては、絶対的に不適切ではないことも少なからずあるのではないか……。僕はこの「ほとんど」と「絶対」の差が気になってしまうのです。

 ポリファーマシーについても同じように思っています。薬を減らすことによって、副作用リスクが低下するかもしれないし、相互作用の懸念もなくなる、残薬だってなくなる、何より医療コストも安くなる。だから薬が減ることは、ほとんど良いと思っています。ほとんど良いとは思いますけど、それで本当に充分か? というと何か違う気がするのです。どこかに、何か考えないようにしてる問題があるんじゃないか? 何か目を背けているような問題があるんじゃないか?そんな気がするのです。

 適切やら、正しい薬物療法やら、いったい誰にとって「適切」で「正しい」薬物療法なのでしょうか。薬物療法の適切/不適切を考察するうえで、公衆衛生という視点、つまり集団を対象にした予防医療と、個別の医療の2つの視点を押さえておく必要があります。

【公衆衛生と生活のギャップ】
 いわゆるエビデンスというのは、公衆衛生的視点からみた客観的な疫学データであり、集団の平均なデータです。情報の一般化可能性に優れていますが、集団において示されたリスク・ベネフィットを個人の生活に落とし込めるかといえば、そうではないかもしれません。

 たとえば、漢方薬の有効性を評価した妥当性の高いランダム化比較試験の報告はほとんどありません。エビデンスがあるといっても、小規模の非盲検試験や投与前後比較研究がほとんどです。つまり、公衆衛生という観点からすれば、漢方が適切な薬物療法といえるかどうかは議論の余地があるところです。しかし、個別の医療で考えてみれば、漢方治療が適切な薬物療法になることは十分にあり得る話です。漢方を服用することで、それまで悩まされていた不快な身体症状から解放された人も少なくないでしょう。

 公衆衛生的視点からみた適正使用と個別の医療という文脈における適正使用には、少なからず価値認識のギャップがあります【図1】 

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【図1】公衆衛生と生活における適正使用のギャップ

 風邪に対する抗菌薬は論外かもしれませんが、高齢者に対する一次予防のためのスタチンやベンゾジアゼピン系薬剤は公衆衛生的視点から見れば必ずしも適切な薬物療法ではないかもしれません。しかし、個別の医療では必要不可欠な治療ということもあり得るでしょう。

 逆にワクチンの疾病予防効果は薬物治療の効果サイズよりも大きく、公衆衛生的な観点からすれば、積極的なワクチン接種が推奨されます(高齢者肺炎球菌ワクチンは賛否あり)。しかし、個別の医療の文脈でいえば、ワクチンの接種の是非をめぐる様々な議論がインターネット上でなされています。

 EBM(Evidence-Based Medicine)はエビデンス、患者の病状と周囲を取り巻く環境、患者の抱く価値観や思い、医療者の臨床経験という4つの要素を統合して臨床判断することによってpublicとpersonalを架橋するものです【図2】。しかし、現実はどうでしょうか。

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【図2】EBMが目指すもの

 例えば、お肉が健康に悪いという質の高いエビデンスがあったとしても、お肉が好きな人はきっとお肉を食べると思うのです。生活そのものに大きな変化は見られない。このことは、お肉を喫煙に置き換えてもよいですし、スタチン系薬剤のような薬に置き換えてもよいです。そして、エビデンスがあっても何も変わらないのであれば、エビデンスは無力なのでしょうか?というのが僕の問題設定の基盤です。もちろん、生活に直結するような強いエビデンスがあれば行動スタイルや価値認識も変わるかもしれませんが、案外そうでないこともあります。

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