EBMを批判する人たちへ

最近ではポリファーマシーという言葉が市民権を獲得し、その認知度も高まっているように思う。それと同時に、どんな薬剤が潜在的に不適切であるか、これまで以上に関心が高まっているといえるだろう。

潜在的不適切処方。さて、では医師は悪意で処方しているのだろうか。否。「その薬、必要ですか?」と問われれば、「必要だから処方している」と答えるはずだ。潜在的不適切、それは極めて認識論的な概念である。

ポリファーマシーを問題化すると言うのは、こうした潜在的不適切という概念を存在論的に規定することだ。つまり、この世界に存在するあらゆる薬剤を、適切、不適切というクリアな線引きをすることに他ならない。しかし、そんなことができると本当に思っているのだろうか。僕はそう問いかけたい。

世にいう潜在的に不適切な薬剤と思われる薬剤にて治療中の患者さんが亡くなった。僕が知る限り、10年以上、同じ薬を服用し続けていた。その方はちょうど100歳で旅立たれた。最後まで経口でしっかり食事をされていた。たどたどしくはあるが会話もできていた。

僕は分かっていた。エビデンスを踏まえれば、いくらでもその不適切性を指摘できる。同レジメンについて僕は徹底的にエビデンスを調べ、代替薬剤候補まで調べつくした。その結果、僕のとった行動は医師への処方提案ではなく、経過観察であった。でも今となってはそれで良いと思っている。

EBMの実践というのは詰まるところ『個』と『統計』の間、つまり顔のある個人としての人間と、顔のない匿名のサンプルとの間の"厄介"な関係にたち戻るという思考プロセスに他ならない。

この”厄介なもの”とは何か。

患者個人と関わる実臨床の場では、患者は「人間」として扱われる。他方、統計データにおいて、そのデータを生み出したものは「人間」だろうか?そう問われた時に生じうる違和感。その中に垣間見えるのが、僕のいう”厄介なものの”正体に他ならない。

スタチンを服用していて心血管疾患の発症が30%減るというエビデンスがある。こうした「顔」のない情報を、「顔」のある人間に適用する場合に立ち現れる違和感、”厄介なもの”。それこそがエビデンス情報を適用することの困難さといえる。EBMを批判する人たちは、この困難さから目を背けたいだけではないだろうか。明確な反論があれがお伺いしたい。

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