美しく生きる方法


美しく生きるとはどういうことかわからなくて苦しい。
ただ淡々と毎日を暮らすことができない私は、なにか人生指針がないと自分の毎日を肯定できない。


今までの私は、個人の利益を優先して他者を抑圧する行為の醜さを憎み、社会の悪のために殉死することを自らの美しさとしてきた。

私は欺瞞だらけの人間関係や社会のシステムを恨んでいて、ただ見ているだけで何もしない傍観者たちを憎んでいた。

勉強や研究ではなく就活が目的となった大学。互いに己を誇張し嘘をつきあう就活構造。自分が不利益を被るからと権力者の不正義を告発しない人。「誰にも言わないから」といって広められていく話。地域の人に傍観されつづける家庭内暴力。教師にもクラスメイトにも見て見ぬふりをされるいじめ。フォロワー数を目的にフォローしあう人間関係と、そうした数字で相手の地位を確かめる現象。支えてくれる人にはどこまで負担をかけてもいいという思いちがい。「あなたのため」と振われる暴力。

こうしたものは全て、自分の利益を追求するために起こることだと思った。社会的な正義を曲げ、自分の利益を優先するために起こる悪しき事態。とても醜いと思った。ならば私はその反対で行こう。自分の獲得するものをこだわりなく他人へ明けわたし、残った最低限のもので生きようと思った。

そうこうしていたら、なぜか周囲の人が優しくしてくれたり、私が死なないように物をくれたりするようになった。私は困惑してしまった。何故なら私は、社会と私のどちらが正しいのか試してやろうと思っていたのだ。社会的に推奨されているが正しいと思えない行為を放棄したとき、社会が私を殺すかどうかを。

結果として、私は助けられ、困惑した。


だから、最初から嘘だったのだ。私は正直で優しい人間ではなく、社会の欺瞞を恨んでいるだけだった。私は、社会が私を救うか試していたのではなく、殺されたかったのだ。

生活用品を買わず、食事を制限し、性や身体を売って限界まで自分を酷使することで社会に殺されて死んでしまいたかった。自分の思う正しさを曲げないまま殺されて、復讐してやりたかった。「まっしろな・ただしい」ままの私が殺されて、「そんな社会はおかしい」って周りの人間が困惑するように、復讐してやりたかった。


けれど、いま私の周りにいるのは良い人ばかりで、とても復讐したい対象じゃない。私は大嫌いな社会に復讐したかったのに、自分を切り捨て傷つくことで一緒に傷ついていくのは私ではなくて身近な人たちだった。

そんなことは本末転倒だ。私は彼ら、彼女らが大好きなのである。優しくて、美しくて、自分の正しいと思うことのためにひたむきに努力する孤高の人たちで、復讐どころか救われて、報われてほしい対象なのである。


正直な話をすると、これまでは誰のことも好きなんかじゃなかった。どんな人からも愛すべき部分を見つけ出す能力には長けていても、その人全体を好いたことなどなかった。他人は結局自分を傷つけてくるものだと思っていた。気を抜いて楽にコミュニケーションできる相手などいなかった。

けれど、今はちがう。私ははじめて、私を受け入れてくれるような人たちに出会えたと思う。それは何もかも甘えきっていい関係ということではないが、私の駄目なところまで見ても、攻撃や排除をせずに付き合ってくれる人たちということだ。私は、そのような人たちを攻撃することはできない。


私のこれまでの人生は自傷行為で自我を保ってきたも同然であり、これからはそういう訳にいかない。

だから、私は自分の人生をどのように生きるかを改めて練り直す必要性に迫られている。

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