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福沢諭吉はリフレの客にも女の子にも優しい


いままでお金をつけて売っていなかったものに値段がつくのは不思議な気持ちだ。

リフレで思うのはその「不思議さ」だった。

趣味で描いてた絵とか、日常的に作ってた料理とかがいきなり数万で交換されたらびっくりすると思う。そんなかんじの気持ちだ。


はじめて性的価値を他人に現金で売ったとき、1日だけ、なんだか「汚れた」ような気がした。
日常に戻ってこられなくて、私生活における無価格のそれを二度とは手に入れられない気がして、おそらくその喪失に震えていた。


殺したかった。自分も、男も、性別というもの全てを包丁で引き裂いて燃やしてしまいたくて、目をつぶるとそんな幻想が瞼の裏にちらついた。
『地獄編』のような光景が瞼の裏をちらついて離れなかった。


しかし、それはすぐに消えた。
仕事用の顔を作ることに成功し、わたしは化粧によって私生活と仕事を分けた。
仕事においてはわたしは性を売った。数度回をこなしてみれば、わたしの性の価値がわかりやすく数値化され明確に取引の終了する世界は、現実世界より楽なくらいだった。ある意味で、だが。


現実世界では、わたしは望むと望まざるとに関わらず勝手に若い女性として見られ、価値を付加され、優しくされ、妬まれ、与えられ恵まれたぶんの返還をせよという無言のプレッシャーに毎日苛まれた。

わたしは私であることの根幹をなす、「養育環境」と「性別」の両者ともに受け入れることができず、ひどい自己嫌悪と世の中へのプレッシャーから動けなくなった。

ちゃんとしなきゃと思うほど起き上がれず、幾度も消えたいと思い、自殺を考えた。


実際には、わたしは必要以上にプレッシャーを感じすぎていたのだと思う。わたしが女に生まれ、裕福な家庭に生まれたことはわたしに与えられた罰ではなく、わたしに起因する罪ではなかった。与えられたという事実そのものへの責任は果たすべきであっても、まるで自分の存在そのものが罪であるかのように感じるのは完全に間違っていた。


わたしは、わたしが女であり、金をかけられて育ったことに後ろめたさを覚える必要などなかったのだ。


しかし、それがわかったのはつい数ヶ月前のことだ。自分の根源的な性質を罪悪だと感じて消滅を希求しながらも「自分を好きになりたい」とのぞむひどい自己矛盾。

精神が捻りきれそうになっていた自分が、「幸福と安住の地」として風俗を選んでいたとしてもおかしくない。



だって、勝手に与えられた上で無言でお返しを求められたりしない。

性的価値を呈示し、客はそれに見合うと感じただけの額を支払う。

完全な等価交換。完全な自由意志。

納得できない交渉を持ちかけられた時に拒否する力さえあれば、お互い完全なる納得のもとに価値を交換しあうことができる。

「友達同士の助けあい」をしていたつもりが唐突に恋愛関係を求められ、あなたが欲しかったものを差し出すことができないという申し訳なさや、これまでの友人関係は偽りだったのではという恐怖や孤独感で震えることがなくなる。

傷つくという言葉ともすこし違う、冬の日にぞっと底冷えするような空寒さがいつもそこには纏わり付く。



だから異性が怖いのだ。異性でこのような思いをすることが多いから。
しかし一方でわたしは誰とも仲良くしたいのだ。人と触れあうまえに初めから壁を作ってしまう自分なんて許せないのだ。



だからリフレクソロジーは、人間が苦手なひとにとても優しい。
金を支払う過程が人と過ごすことを納得させてくれる。
この人は金を払ったから自分と一緒にいてくれているのだ、この人は金をくれたのだから自分と過ごす時間に価値を感じているのだと。
福沢諭吉はリフレの客にも女の子にも優しい。



リフレが救いになる人たちがいることをわたしは否定できない。

でも、もしそれが変わるのなら、ほんの少しだけ酸素供給量の多い世界でわたしも生きてみたい。

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