あいや~から始まったGW

出発

「あいや~」
パッと目覚めてスマホを見たときの反応だ。
朝の2時半に起きる予定が、3時半(これって出発する時間)だったのだから、寝ぼけてなんかいられない。一気にアドレナリン放出。
僕は、速攻あるのみと決断し、荷物をボストンバックへ放り込むようにしてワダッソのドアを閉めた。
台所には昨夜食べた惣菜のパックが洗わずに置いてあるのがチラッと目についたが、この勢いを停めるわけにはいけない。
なんせ始発に乗るためには、徒歩1時間の道のりを、半分の30分で走破しないといけない。
ものの5分で荷物の重さが肩にのし掛かり、僕の精神力を試しに来た。
ものの10分で僕の精神力は、走る以外の道に期待を込めて、祈った。
「タクシーはおらねかー」
dも、時刻は朝の4時。そうそうおるわけがねータクシー。
そのタクシーが、交差点を左折してやって来た。
「わぉ! 念じれば通じるって、本当にありかや!」
そんな驚きを心に秘めて、冷静にタクシーに乗り込み行き先を告げ、シートに深く座り込むと、背中にうっすら汗を感じた。
ものの10分で駅に着き、改札が開くのを待って、始発に乗り込んだ。さすが東京である。駅に停車するたび、乗客が増えていく。
東京駅に着いたのは、6時前。新幹線乗り換え口には、大勢の人が改札が開くのを待っている。「さすがGWだねー」
と思いながら、改札から少し離れた隅にボストンバックを置いて、周囲を眺める。どんどん人が増え、改札が見えんようになってきた。
「これは、凄いなー」
と思っていたら、人の流れが動いた。改札が開いたようだ。僕は少し間を置いて改札に切符を通す。昨日買った「グリーン券」だ。GW期間中の「のぞみ」は全席指定で、予約できたのはグリーンしかなかった。
初グリーンである。
8号車に乗り込む。やはり広いなー。
足おきまであるし、シートが広いので、僕のように色々な荷物を広げても余裕だ。まずは、PCを出して、見たかったYouTubeを見たり、頭の整理をしたり。そんなこんなの合間に周囲を見てみると、日本人ばかりだと気づいた。時間の関係なのか、グリーン車だからかはわからない。
そして、車内販売はネットで注文すると、売り子さんが席まで届けてくださるシステムのよう。コーヒー一杯をカゴに乗せた女性が何度か通路を通っているのが見えた。でも、新大阪からは、見慣れたワゴン車が登場。別にモノを買うわけではないけど、知っている光景には安心する。
約4時間の新幹線「初グリーン」は、席が広く体への負担も明らかに少なくて、あっという間という感覚。
「グリーン車スゲー」
と思いながら、在来線へ乗換え。ワンマン列車に約2時間揺られ、終点からローカルバスへ。
乗換時間は全て10分程度という素晴らしさ。バスに至っては日に4本しかないのにね。

山の中の実家

乗客が僕しかいないバスから降りた時、ぶわっ~っと何かが全身にやってきた。
鳥が遠近で囀り、虫やカエル、風に揺れる木々の音などが耳だけじゃなく、皮膚細胞を通して感知されたのだろう。全身が微かにざわついたのがわかった。
言葉にならない感覚をあえてコトバにすると、
「ここは生き物の世界だ」
って感じたのかな。
僕は、「よし」とばかりにその世界の中へ入っていく。
「ただいま」
と、勝手口から入ると、母親が出迎え昼ごはんを食べさせてくれた。
腹ごしらえを終えると、さっそく農作業開始だ。
まずはトラクターで荒代(代かき)という作業。代かきというのは、田んぼの表面の土を攪拌していく作業。攪拌しながら、ざっくりと田んぼ平にしていくことになる。この日は、田んぼ2つ、代かきができた。

翌朝、4時に目覚めると、外がやけに明るい。カーテンをあけ窓から外を観ると、見事な月が出ていた。山の上にある半月に心がやさしくなる。

完全なる朝

僕は4月から東京のはずれ、小さな自然に囲まれたワダッソに住みだして、朝が大きく変わった。
武蔵野平野に立ち上がる朝日は、小川に沿った桜並木をひときわ美しくする。僕はこの朝の美しさを「完全なる朝」と名前を付けてしまった。
「付けてしまった」というのも、当然ながら何万回という朝を経験してきているのに、この「完全なる朝」の存在に気づけなかった僕が、期せずあの桜並木の向こうからあがる朝日を観て朝日が僕たちにそそぐ瞬間の「うわ~」っと全身が歓びをあげる瞬間を感じることができた。
所が変わっても同じ。朝飯前に草刈機を動かし草を刈っている僕の背後の山から朝日がのぼった瞬間に「完全なる朝」を感じることができた。
そして、あれは僕が保育園の頃、ばあちゃんと朝の草刈りに行っている時、「完全なる朝」を実感していたことを思い出した。
子どもが大きくなるということは、人間社会に適合していくこと。それをオトナは喜ぶが、それは生き物から遠ざかっていく過程でもあるんだね。

朝のまどろみ

僕は、朝、布団の中の「まどろみ」を大切にしている。時に仕事上のヒントがやってきたり、過去の出来事の本当の解釈がやってきたりする(解釈をより自然な方へ解釈を変えるという意味かな)。
この日、まどろみの中にやってきたのは「”生命に関する仕事”に関わりんさい」ということ。
生命に関わる仕事を僕の中で構築していければ、僕は幸せなのかもしれない。と言いつつ、どんな仕事も「生命に関する仕事」とも言える。ただ、仕事によって「生命に」向かう工数には、へだたりがあると思う。だとしたら、いかにその工数を減らしていくか? これって重要な気がする。
田んぼの作業は、代かきを終え、田植まで田んぼを寝かせておく期間。田んぼは、全面に水をたたえ、湖面のようになる。風のない朝や夕方は、まわりの山々の風景を湖面に切り取って見せてくれる。
この湖面のような田んぼが僕は好きだ。

田植え

田んぼの仕事は、春のクライマックス、田植えへと移る。
その田植えの前に、「田植えをいつ始めるか?」をめぐり、少し深い気づきがあった。
僕の家庭は「普通」をこよなく愛し、「独自性」を排除するような家庭だと思う。両親からすると、僕のおじいさん(両親の親)が、独自性の塊のような人だったから、その反動があったのかもしれない。
だけど残念なことに僕は、おじいさんの血を引き継いでいて、独自路線が大好き。だから、常に衝突する。
今回、田植えをいつから始めるか? という時期になって、早く終わらせたい母親から、少し尖った言葉がやってきた。僕は、いつものように無言でいた。それが正解とばかりに。だけど気づいた。僕は尖った言葉から自分を守ろうとしている。そのための無言だ。その無言の守りは、母親を傷つけている。
この世は、自分がやりたいことを、やりたいようにできるほど、甘くない。このような小さな衝突を、大きくせず乗り越えていくか? ここを考ええることが、人を幸せに導くための関係性の課題だと知った。
「知った」とこで、「ぽん」とオセロがひっくり変えるように変われるものじゃない(本当は変われるらしいけど)。
少しづつ、少しづつ、僕は自己を変えていこう。
そういう気づきを得ながら、田植えを始めていった。
田植えは、地域で管理している6条植えの田植機を使う。軽トラより大きい図体をしたマシーンで、走るように田植えができる。植えやすい田んぼなら、1時間ほどで植え切ってしまう。
僕は、母親の言葉がどこかに残っていたのだろうか? 
「早く終わらせよう」と田植機を操作していた。それは田植えという生命に関わる仕事が、ただの「作業」となってしまう。
僕は、田植という重大ミッションを作業としてこなしてしまった。山の日暮れは早い。西の山に太陽が隠れようとする時、僕は、田植機を故障させてしまった。だいたい機械を故障させたり、怪我をしたりする時というのは、こういう風に、仕事を作業としてしまっている時だ。田植機の故障がどの程度なのか、よくわからないまま夜を迎え、故障させてしまった自分への自己嫌悪はますます多くなる。

翌朝、農機屋さんが田植機を見に来てくれた。
「こんなことになるの、初めて見た」と農機屋さんに言わしめる故障。
ではあるものの、奇跡的に部品の交換で復活。
復活後、農機屋さんから
「変だなと思ったら、止まってみてくださいね」と優しく声をかけられた。作業としてやっていることを見透かされているようだ。
気分を改め、田植機に乗り、残る田植えを済ませることができた。

田植えを終えた翌朝。物凄い強風が吹き荒れて、その風の音に起こされた。
僕は朝飯前に畝にある草刈機で刈った草を集めることにした。山の木々を揺らす風は田んぼにも僕にも容赦なく吹きつける。
その一定のリズムで吹く風音は「ボレロ」ように僕は感じてきた。田んぼを見ると、苗が強風に耐えながら歓喜しているように感じられた。それは、人が困難な課題に向き合い克服しようと楽しんでいる姿にみえた。
風奏で 田の神躍る 春の朝

僕は、今、新幹線に乗っている。僕のGWは終わろうとしている。
田舎から離れていくのは、つらいけど、ワダッソが待っていてくれる。
明日からまた、ワダッソとともに。

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