「フラワーアーティスト=仮屋崎」の概念が崩れ去った日
植物が吊るされて浮いている
それ以上の言葉が出てこない。「何か物凄いものを発見してしまった」という興奮があるのだが、それを語る言葉を自分は持っていない。
フラワーアーティスト東 信(あずま まこと)の「式」。松は何度も見たことがあるが、こんな松は見たことない。かっこいい。
気づけば、4000円する作品集を購入したり、インスタのフォローをしたりと1人のファンとして東さんの作品を楽しんでいる。
どんどん作品が更新されていく中、何度も何度も見返すのは13年前に発行された1冊の雑誌である。
なぜ、これほどまでの自分の心を揺さぶるのか。読み返したくなるのか。考えてみると、彼の生き方に自分の働き方を重ね合わせたい気持ちがあることに気づいた。
出会いは雑誌
IWGPやピンポンを愛している自分は窪塚洋介が表紙を飾っているという理由で雑誌パピルスを購入。I can flyしたあとの苦しい生活ぶりやそこからの復活を本人が語り、最後は卍ラインという名前でレゲエディージェイとして活動するという流れのインタビュー。人工肛門になっても、あいかわらずの窪塚節。
さらにケンドーコバヤシが漫画について語り、岡村隆史、ビートたけしのコラムが続く。知らない雑誌だけどすごいメンツが揃っているんだなと読み進めていたら、新しいコラムとして「花と俺」という連載がスタートしていた。
見開き2ページの紙面いっぱいにビールの中に花をぶちこんだグラスがドーンと飛び込んできた。なんなんだコレは。。。作品名は「花を抱きしめるビールを握りしめる」といい、紙面右側にはコラムが書かれている。
かっこいい。これはかっこいいぞ。心を完全に鷲掴みにされてコラムに目をやる。
ビールを毎日のんでいること。喜びを爆発させたり、悲しいときはどん底に突き落としてくれる芸術作品だと思っていること。植物から多くの人を喜ばせる作品を産み出しているビール開発者にフラワーアーティストとして刺激を受けていること。ビールは黄金に浮かぶ白い雲であるとビジュアルを褒め称え、今日も飲んだくれる。それは明日の自分のためだということ。
すべてが、「俺」の目線で「俺」の言葉で表現されている。この面倒臭そうだけど、強烈なこだわり。強烈なこだわりから生まれる力強い表現。今まで花の表現というのはキラキラしていて華やかで繊細で、フラワーアーティストとは假屋崎省吾という印象しかなかったが、この作品を見て「フラワーアーティスト=仮屋崎」という固定観念が打ち砕かれた。花とはキラキラしてて華やかだけではなく、ガツンと力強い表現というものがあるのだ。
そして、このガツンと力強い表現が自分は好きだし、「俺のスタイル、俺の目線、俺の表現」ができる人が好きだ。凄い人を発見してしまったという興奮が収まらなかった。
「式」とのご対面
コラムの次は東 信さんがドイツで個展をレポートした特集が組まれている。ドイツの街の様子、美術館の外観、モレスキンに書かれたスケッチ。写真をどんどん見せた後に、その写真の解説をいれる構成となっている。なんと言っても「式」シリーズの写真には心奪われる。
「松ってこんなにカッコイイのか」
宮台真司が「芸術作品は鑑賞前と鑑賞後では世の中の見え方が変容してしまう力を持つ」と言っていたが、まさにそれである。
インタビューにやられる
最後にインタビューを受けているのだが、パンチライン連発でアンダーラインだらけになってしまった。
突き抜けたことやらないとダメなんですよ。伝えていくにはね。それはただ尖ればいいとか、自分の理論を並べればいいという暴力的なことではないんですが
僕は毎日、花と向き合って、花を殺してるんです。だからこそ、花に対してシリアスに、深く感じているし、そこからエネルギーをもらっている。
できるやつはどこでもできると僕は信じている
僕が信じるクリエイティブっていうのは、コミュニケーションの中にある
パンクでありたいとは思うし、人には細かいことなんてどうでもいいんだよってよく言うんですけど、月末の経理は一円を拾うつもりで経理してますからね
“ポッと出”がって言われることがあるんですけど(中略)やりたいことのために、やるべきことをコツコツやって、今ドイツに来たってだけの話なんです
当時20代前半だった自分は、非常勤の体育教師として「生徒に伝わらないモヤモヤ」と戦っていた時期。このインタビューを読んで「自分の個性を出そうとしすぎて生徒を置き去りにしてはいけない」「コミュニケーションを通して作り上げていくのが授業だ」「豪快を履き違えるな」「『こうだ』と指導することは、生徒にある無数の選択肢を制限する(殺す)ことでもある。でも、それだけ確信を持って指導することもプロとして必要なこともある。」などと自問自答していたことを思い出す。
そして、それは今でも変わらない。
勤務校で大事件が起きてワイドショーのど真ん中で取り上げられたり、結婚したり、子供が生まれたり、自分の置かれている環境はこの13年で大きく変わった。でもその度に「できるやつはどこでもできるはず」という言葉を読み返す。限られた中で工夫を凝らし、粘り強くやろうと奮い立たせる。
やりたいことのために、やるべきことをコツコツ続ける。
朝のローソンで今日もこの文章を書いている。
フラワーアーティストに学ぶ
東さんの働き方を通して、自分のやるべきことを省みている。
フラワーアーティストの東さんは花を育てるわけではない。奇麗なものをさらに手を加えて、芸術作品に仕上げる。
とんでもない値段の花を大量に購入し、豪快に使い切る。花のポテンシャルを最大限に引き出そうとする。
教師も一緒で、教師は人を生み育てるわけではない。親が懸命に育ててきた生徒にアドバイスしたり、教養をつけさせたりという、挑戦できる環境を用意したりと『ちょっとお節介をやく』のが仕事だ。
これは経験則だが、一般人をプロ野球選手に育てる高校があるわけではなく、プロレベルの選手をドラフト指名されるまで導くことができるノウハウがある高校があるだけだ。そこに入れば誰でも東大に入れる学校や塾があるのではなく、東大に入るノウハウをもつ高校や塾があってそれについてこれるかどうかでしかない。
東さんはフラワーアーティストとして、完成されている花に手を加えて、より魅力を引き出している。
教師も同じで、そのままでも問題ない生徒を、より高みに引き上げることが仕事なのかもしれないと考えるようになった。
「育てるのではなく、ポテンシャルを引き出す。」
「その生徒のやる気と全力を引き出す。」
余計な邪魔をしない。だからといって静観するだけではない。時には「こうすべきだ」というべきこともある。そのバランスや言葉のチョイスやタイミングが教師にとって肝になるんだと思うようになった。
あれから13年。東さんは生き残り続けている。誰かに媚びることなく、自分の表現を生み出し続けている。時折、雑誌を読み返しながら、作品に触れながら、その姿に刺激を受けて精進していきたいと思う次第である。