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【第Ⅲ部 日本の台頭(後編)】半導体戦争 要点メモ

こんにちは。
都内でひっそりと生きる専業主夫です。


今回も『半導体戦争』のメモです。

2023年2月発行であること
・新書で購入する場合、税込3,000円以上すること
半導体バブルの影響で需要が高いこと

から、図書館での予約も殺到しており、
1ヶ月以上待ってようやく借りられました。

本作は500ページを超える長編となっていますが、
分かりやすく翻訳されており、すらすら読めます。

この本については

第Ⅰ部 半導体の黎明期
第Ⅱ部 半導体産業の基軸になるアメリカ
第Ⅲ部 日本の台頭
第Ⅳ部 アメリカの復活
第Ⅴ部 集積回路が世界をひとつにする
第Ⅵ部 イノベーションは海外へ
第Ⅶ部 中国の挑戦
第Ⅷ部 武器化する半導体

という構成となっています。

今回は第Ⅲ部
「日本の台頭」(後編)
についてです。

Ⅰ部・Ⅱ部・Ⅲ部(前半)の
メモについては下記からどうぞ。



※注意※
著者が個人的に重要と感じた
箇所を”引用”した内容となります。


サンダース、ノイス、スポークの3人は、ほかのCEOたちと手を結び、アメリカ政府に半導体産業の支援を働きかけるロビー団体「米国半導体工業会」を結成した。

 サンダースが半導体を「原油」と表現したとき、国防総省(ペンタゴン)はその言葉の意味するところが正確にわかっていた。実際、半導体は原油よりいっそう戦略的な製品だった。

 テキサス・インスツルメンツが兵器システム向けの電子機器の主要メーカーだったこともあって、長年、キルビーは国防総省と密接に連携していた。IBMやベル研究所も同じで、アメリカ政府と深いつながりがあった。ところが、インテル上層部はもともと、ある国防総省の当局者いわく、「誰にも頼らないシリコンバレーのカウボーイ」を気取っていた。そのノイスまでもが、国防総省と進んで手を組もうというのだから、半導体産業の直面している脅威の深刻さや、そのことが米軍に及ぼす影響の大きさがうかがえた。

 
米軍はいまだかつてなく電子機器、そしてチップに依存していた。報告書によると、1980年代には、軍事費の約17%が電子機器につぎ込まれていた(第二次世界大戦末期が6%)。人工衛星から、早期警戒レーダー、自己誘導ミサイルまで、何もかもが先進的なチップに頼っていた。国防総省の部会はその影響を4つの箇条書きにまとめた。

米軍は勝利を技術的な優位性に大きく頼っている。
●もっとも活用性の高い技術は電子機器である。
●電子機器分野をリードするうえで重要なのは半導体である。
●近い将来、アメリカの国防は最先端の半導体技術を外国の供給源に依存するようになる。

 第二次世界大戦直後、日本を占領したアメリカは、軍国主義を排除するよう日本国憲法を起草した。しかし、1951年に両国が日米安全保障条約に署名すると、アメリカはソ連と戦ううえでの軍事支援を求めて、慎重に日本の再軍備を促し始めた。日本政府は同意したが、その一方で防衛費を日本のGDPの約1%までに制限した。これは、戦時の日本の拡張主義を身にしみて記憶している近隣諸国への配慮だった。

 しかし、軍備に大きな投資をしなかったぶん、日本には別のところに投資する金銭的余裕があった。実際、日本よりアメリカのほうが、自国の経済規模との比率で5~10倍も国防に支出していた。アメリカが国防という重荷を背負っているあいだ、日本は経済成長に専念することができたのだ。

 その結果は、誰もが予期しないほど目覚ましいものだった。かつてトランジスタのセールスマンの国と揶揄された日本は、いつの間にか世界第二の経済大国になり、アメリカの軍事力にとって重要な分野で、アメリカ産業の優位性を脅かしていた。長年、アメリカ政府は、アメリカが共産圏を抑え込んでいるあいだ、日本に外国貿易を拡大するよう促してきたが、この分業はもはやアメリカにとって有利とはいえなくなってきた。

 シリコンバレーは政府と愛憎相半ばの関係にあった。一方ではほっといてくれと望みながら、もう一方では助けを求めていたのだ。ノイスはそうした矛盾の典型だった。フェアチャイルドの黎明期、彼は国防総省の官僚制度を目の敵にしつつも、冷戦時代の宇宙開発競争から恩恵を受けていた。彼は今、政府による半導体産業の支援が必要だと考えていたが、相変わらずアメリカ政府がイノベーションになるのを危惧していた。アポロ計画の時代とは異なり、1980年代になると、半導体の9割は軍ではなく企業や消費者が購入するようになった。もはやシリコンバレーの最重要顧客といえなくなった国防総省が半導体産業を形づくるのは難しかった。

 半導体支援の問題は、アメリカ政府への働きかけによって決着した。シリコンバレーと自由市場主義の経済学者の双方が合意した問題のひとつが、税金だった。ノイスは議会に対してキャピタル・ゲイン税〔株式や債券などの売却益にかかる税金〕を49%から28%に引き下げるべきだと証言し、年金基金がベンチャー・キャピタル会社に投資できるよう金融規制の緩和を訴えた。こうした変更が行われると、パロアルトのサンド・ヒル・ロードに集中する数々のベンチャー・キャピタル会社への大量の資金が流れ込んだ。

 次に、議会は半導体チップ保護法を通じて知的財産の保護を強化した。決め手となったのは、インテルのアンディ・グローブをはじめとするシリコンバレーの経営幹部たちが、日本企業による合法的な技術の模倣のせいでアメリカの市場地位が損なわれている、と議会で証言したことだった。

 国防総省から突っつかれ、業界から働きかけを受けたレーガン政権は、ようやく重い腰を上げる。レーガン政権のジョージ・シュルツ国務長官のような、それまでの自由貿易主義者たちでさえ、アメリカが関税をちらつかせないかぎり日本は市場を開かないだろう、と結論づけた。アメリカの半導体産業は、日本企業がアメリカ市場でチップを不当廉売(ダンピング)しているとして、一連の正式な不満を表明した。

 しかし、日本企業が製造原価未満でチップを販売しているという主張は、証明が難しかった。アメリカ企業は日本企業の資本コストの低さを論拠に挙げた。対する日本は、それは日本経済の金利のほうが低いからだと反論した。双方ともに一理あった。

 1986年、関税の脅威が迫るなか、日米両政府はひとつの合意を結んだ。日本政府はDRAMチップに輸出割当を設け、アメリカへの販売数を制限することに同意したのだ。ところが、この合意によって日本国外でのチップの価格が上がり、日本製チップの最大の買い手であるアメリカのコンピュータ・メーカーが打撃を受けた。

 チップの価格上昇は、むしろ日本のメーカーにとって有利に働き、日本のメーカーはDRAM市場を支配し続けた。
一方、アメリカの大半のメーカーはすでにメモリ・チップ市場から撤退しようとしていたため、貿易協定とは裏腹に、DRAMチップを生産し続けるアメリカ企業は少なかった。この貿易制限はテクノロジー業界内で利益を再分配したが、アメリカのメモリ・チップ・メーカーの大部分を救うには至らなかったのだ。

 すると、議会は支援の最後の一手を試みた。シリコンバレーの不満のひとつに、日本政府が企業同士の協力的な研究開発活動を支援し、そのための資金を拠出しているという点があった。アメリカのハイテク業界の人々の多くは、アメリカ政府もこの戦略を見習うべきだと考えていた。そこで、1987年、アメリカの主要半導体メーカーと国防総省が、官民共同出資によるコンソーシアム「セマテック」を立ち上げるに至った。

 セマテック設立の動機となったのは、半導体産業の競争力を保つためにはより深い連携が必要である、という考え方だった。
半導体メーカーにはより精密な製造装置が必要だったが、そのためにはまず半導体メーカーが求めるものを理解する必要があった。

 しかし、装置メーカーのCEOたちは、「テキサス・インスツルメンツ
モトローラ、IBMといった企業は自社の技術について口が堅すぎる」と不満を漏らすばかりだった。半導体メーカーの開発しようとしている技術を理解しないかぎり、必要な装置を売り込むのは不可能だ。一方、半導体メーカーは半導体メーカーで、装置の信頼性に不満をこぼした。

 そこで、セマテックの代表に名乗りを上げたのがノイスだった。彼はその10年前にすでにインテルを事実上引退し、経営の手綱をゴードン・ムーアとグローブに譲っていた。集積回路の共同発明者であり、アメリカでももっとも成功したふたつの新興企業の創設者でもあったノイスは、技術面においてもビジネス面においても、これ以上ない適任者といってよかった。シリコンバレーで彼に匹敵するカリスマ性と人脈を持つ人物はいない。

 ノイスはまず、強力な技術を持っていたが、持続可能な事業や効果的な製造工程を生み出すのに苦労していたGCAのような装置メーカーを支援し始めた。セマテックは信頼性や適切な経営スキルをテーマとしたセミナーを主催し、いわば小型版のMBA過程を提供した。また、装置メーカーと半導体メーカーの生産スケジュールをすり合わせるための調整役も担い始めた。リソグラフィ装置や成膜装置が準備できていなければ、半導体メーカーが新世代の半導体製造装置を開発する意味がない。逆に、半導体メーカーの側に利用する準備がなければ、装置メーカーは新しい装置を開発しようとは思わない。そこで、セマテックが仲介役となり、メーカー同士が生産スケジュールに関して合意を結ぶ手助けをしたわけだ。これは自由市場とは呼べなかったが、日本の大企業はこの種の連携に長けていた。

 
しかし、ノイスが重視していたのは、アメリカのリソグラフィ産業を救うことだった。そのため、セマテックの融資の51%はアメリカのリソグラフィ装置メーカーへと注がれた。彼はその理屈をシンプルに説明した。リソグラフィ産業が融資の半分を得るのは、それが半導体産業の直面している「問題の半分」を占めるからだ。リソグラフィ装置がなければ半導体装置はつくれないが、アメリカに残る数少ない大手メーカーは生き残りに苦戦を強いられいた。となれば、アメリカは近い将来は外国製の装置に依存するようになるかもしれない。

 1990年、セマテックにおけるGCAの最大のパトロンだったノイスが、朝のひと泳ぎを終えたあと、心臓発作を起こして亡くなった。彼はフェアチャイルドとインテルという2大企業を築き上げ、集積回路を発明し、現代のコンピューティングのすべてを下支えするDRAMチップやマイクロプロセッサを市販化した。しかし、リソグラフィにだけは、ノイスの魔法はかかることはなかった。
 
 1993年になると、GCAを売却または廃業すると発表した。しかし、同社の課した期日が刻一刻と近づいても、買い手は見つからなかった。すると、すでにGCAに対して数百万ドル単位の融資をしてきたセマテックが、手を引くことを決めた。藁にもすがる思いで、GCAが最後にもういちどだけ政府に支援を求めると、国家安全保障当局者たちは、GCAを救うことがアメリカの外交政策にとって必要なのかどうかを検討した。「打つ手なし」がその結論であった。

 こうして、GCAは店をたたみ、所有する装置をすべて売却処分し、日本との競争に敗れた数ある企業のリストに名前を刻んだ。

 アジアにおけるアメリカの覇権は、技術的な優位性、軍事力、そして日本、香港、韓国、東南アジア諸国を結びつける貿易関係や投資関係に基づいて築かれた。香港の九龍湾沿いに初めてフェアチャイルドの組立工場が完成して以来、集積回路はアジアにおけるアメリカの地位に不可欠な要素だった。その後も、アメリカの半導体メーカーは台湾から、韓国、シンガポールまで、アジア各地に工場を続々と開設していった。こうした地域は軍事力だけでなく経済統合によっても共産主義の侵入から守られていた。エレクトロニクス産業が、貧困に起因するクーデターの多発する農村部から農民たちを吸い上げ、アメリカで消費される電子機器の組立という好条件の仕事に従事させていたからだ。
 
 アメリカのサプライ・チェーンによる国政術は、共産主義者たちの撃退という点では見事に機能した。しかし、1980年代になると、その最大の受益者はいつの間にか日本にすり替わっていた。日本の貿易や外国投資は著しく成長し、アジアの政治経済における日本政府の役割は容赦なく拡大していた。日本がこれほど急速に半導体産業を支配できるなら、日本がアメリカの地政学的な派遣を奪うのをいったいどう止められるだろうか?


次回、

第Ⅳ部「アメリカの復活」

に続く予定だったのですが、
本の返却期限がきてしまいました。。

続きが気になる方はぜひ図書館などで
借りるか、購入してみてください!


それでは、今回はこの辺で失礼します。


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