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【第Ⅱ部 半導体産業の機軸になるアメリカ】半導体戦争 要点メモ

こんにちは。
都内でひっそりと生きる専業主夫です。


今回も『半導体戦争』のメモです。

2023年2月発行であること
・新書で購入する場合、税込3,000円以上すること
半導体バブルの影響で需要が高いこと

から、図書館での予約も殺到しており、
1ヶ月以上待ってようやく借りられました。

本作は500ページを超える長編となっていますが、
分かりやすく翻訳されており、すらすら読めます。

この本については

第Ⅰ部 半導体の黎明期
第Ⅱ部 半導体産業の基軸になるアメリカ
第Ⅲ部 日本の台頭
第Ⅳ部 アメリカの復活
第Ⅴ部 集積回路が世界をひとつにする
第Ⅵ部 イノベーションは海外へ
第Ⅶ部 中国の挑戦
第Ⅷ部 武器化する半導体

という構成となっています。

今回は第Ⅱ部
「半導体産業の機軸になるアメリカ」
についてです。

Ⅰ部のメモについては下記からどうぞ。


※注意※
著者が個人的に重要と感じた
箇所を”引用”した内容となります。

ソ連は石炭や鉄こそ大量に生産していたが、先進的な製造ではほとんどの分野で遅れを取っていた。つまり「量」の面では秀でていたが、半導体の量産にとって重要な「質」と「純度」の面では劣っていたことになる。

 おまけに、西側諸国は、対共産圏輸出統制委員会(ココム)という組織を通じて、半導体部品を含めた多くの先進技術の共産主義諸国への移転を禁じていた。中立国であるオーストリアやスイスのダミー会社を通せば、ココムの規制をくぐり抜けられることも多かったが、この抜け道を大規模に使うのは難しい。

 そのため、ソ連の半導体工場は、劣悪な装置や純度の低い材料を日常的に使わざるを得ず、結果として、機能するチップはアメリカよりはるかに少なかったのだ。

 スパイ活動でできるのはせいぜいそこまでだった。ケーキを盗んでも焼き方まではわからないのと同じで、単純にチップを盗んだだけでは、つくり方まではわからない。半導体製造のレシピは、すでに複雑をきわめていた。

スタンフォード大学のショックレーのもとで学んだ交換留学生は、聡明な物理学者にはなれたかもしれないが、特定の化学薬品の加熱温度やフォトレジストの露光時間を知るのは、グローブやメアリー・アン・ポッターのような技術者だけだった。半導体製造工程のどのステップにも、特定の企業だけが隠し持つ専門知識が必要だった。

 テキサス・インスツルメンツやフェアチャイルドは、より多くのトランジスタを用いた新たな設計を毎年のように生み出していた。1960年代中盤には、最初期の集積回路などすっかり過去の造物と化していた。あまりに巨大で、電力を食うので、ほとんど使い物にならなかったのだ。

 ほかの大半の種類の技術と比べて、半導体技術は猛烈なスピードで進化していた。トランジスタのサイズとエネルギー消費は縮小する一方、シリコンに詰め込める単位面積あたりの計算能力はおよそ2年ごとに2倍になっていた。これほど、急速に進化する技術など、ほかになかった。半導体部門以上に、昨年の設計を盗むことがこれほど戦略として絶望的な分野はなかったといっていい。

 日本の由緒ある造り酒屋の15代目の跡継ぎだった盛田昭夫は、生まれたころから当然家業を継ぐものとして育てられた。父は息子に酒屋の第15代当主になってほしかったが、幼少期からの機械いじりへの愛情と物理学の学士号が、彼を別の道へといざなった。戦時中、彼はこの物理学の専門知識のおかげで前線ではなく研究所に配属され、命拾いをしたともいえる。

 盛田の物理学の学位は、戦後の日本においても役立った。1946年5月、いまだ荒廃したままの日本で、彼は元同僚の井深大と一緒に電機メーカーを創業する。その会社はすぐに、ラテン語のsonus(音)と英語のsonny(坊や)にちなんで、ソニー(Sony)と名づけられる。

 盛田と井深は、そうした家電を日本の顧客だけでなく、世界一豊かな消費者市場であるアメリカにも販売することに、社運を託すと誓ったのである。

 日本政府はハイテク産業の支援を示唆し、盛田がベル研究所を訪れたのと同じ年には、日本の皇太子がアメリカの無線研究所を訪問した。日本の協力の通商産業省〔現・経済産業省〕もまた、国内の電機メーカーを支援しようとしたが、通商産業省の影響は善悪どちらとも言いがたいものだった。

 あるとき、ソニーがベル研究所からトランジスタのライセンスを取得するための申請を出したのだが、官僚たちのせいで数ヶ月遅れるはめになった。通商産業省の承諾なしで外国企業と契約を結ぶなんて「思い上がりにもほどがある」というのがその理由だった。

ソニーは日本の安い人件費から恩恵を受けたが、同社のビジネスモデルの核は結局のところイノベーション、製品設計、マーケティングにあった。盛田の「ライセンス」戦略は、ソ連のショーキンの「コピー」戦術とは似ても似つかなかった。

 多くの日本企業は、容赦ない製造効率で有名だった。ソニーは、新たな市場を見つけ、シリコンバレーの最新の電気回路技術を活かした驚異的な製品でその市場を狙い撃ちすることで、他を圧倒した。「大衆にほしい製品をたずねるのはなく、こちらから新製品を提案して大衆を引っ張る、というのがわれわれのやり方だ」と盛田は述べた。「大衆は何が可能なのかを知らない。だが、われわれは知っている」

 1960年代、プラスチック基板にシリコン・チップを取りつける工程には、まず、顕微鏡を見ながらシリコンをプラスチック上に配置する作業が必要だった。次に、機械が熱、圧力、超音波振動を加えてシリコンをプラスチック基板に接着するあいだ、ふたつの部品を固定しておく。そうしたら、チップに電気が流れるよう、薄い金線を再び手作業で接続する。最後に、チップをメーターに接続してテストする。これもまた、当時は手作業でしかできなかったステップだ。したがって、半導体の需要が急増するにつれて、それを組み立てられる人手の需要も急増するのは必然の成り行きだった。

 フェアチャイルドは、アジアに組立をオフショアリングした初の半導体メーカーだったが、テキサス・インスツルメンツやモトローラなどの企業もすぐあとに続いた。10年とたたないうちに、アメリカの大半の半導体メーカーが外国に組立工場を所有するようになっていた。

 そこでスポークは香港以外に目を向け始めた。香港の時給25セントという賃金は、アメリカと比べれば10分の1ではあったが、アジアでは最高の部類だった。1960年代中盤は、台湾の時給が19セント、マレーシアが15セント、シンガポールが11セント、そして韓国にいたってはわずか10セントという有様だった。

電子機器の組立は、ほかの投資の呼び水となり、台湾がより付加価値の高い商品を生産する助けとなるだろう。アメリカ国民がアジアへの軍事的関与にますます懐疑的になるなか、台湾はなんとしてでもアメリカとの結びつきを多様化する必要があった。台湾防衛にまるきり関心のないアメリカ国民も、テキサス・インスツルメンツなら守ろうとするかもしれない。台湾に半導体工場が増えれば増えるほど、アメリカとの経済的な紐帯は強まり、台湾がより安全になる、というわけだ。

 1968年7月、台湾政府との関係を丸く収めたテキサス・インスツルメンツの取締役会は、台湾新工場の建設を承認する。そして、1969年8月を迎えるころには、その工場で最初の半導体が組立てられていた。そして、1980年の時点で、同工場は10億個の半導体を出荷していた。

フェアチャイルドのノイスとムーアは、自社株購入権(ストック・オプション)が与えられていないことに不満を抱き、ニューヨーク本社からのたび重なる干渉にうんざりしていた。ふたりの夢は体制を破壊することではなく、築き直すことだった。

 ノイスとムーアはその10年前にウィリアム・ショックレーの新興企業(スタートアップ)を去ったときと同じくらいあっさりとフェアチャイルドに見切りをつけ、「集積されたエレクトロニクス(Integrated Electronics)」の略である「インテル(Intel)」を創設する。

創設から2年後、インテルは最初の製品を発売する。それはダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)と呼ばれるチップだった。1970年代より以前、コンピュータはシリコン・チップではなく、磁気コアと呼ばれる装置を使ってデータを”記憶”していた。磁気コアとは、格子状に並んだ微細な金属のリングをワイヤーで接続したもので、リングが磁化されると1、磁化されていないと0というデータが蓄えられる。リング同士を結びつけるジャングルのようなワイヤーは、各リングの磁気をオンやオフに切り替えることもできるし、各リングの磁気をオンやオフに切り替えることもできるし、各リングの磁気が1なのか0なのかを、”読み出す”こともできる。

 ところが、1と0の記憶の需要が爆発的に膨らむ一方で、ワイヤーやリングの微細化には限界があった。部品がこれ以上小さくなれば、手作業で組立てられるのは不可能になる。つまり、磁気コアでは、コンピュータ・メモリの爆発的な需要増にとうていついていくことはできないのだ。

1960年代、IBMの技術者たちが、小さな金属リングよりも効率的にデータを”記憶”できる集積回路の構想を描き始めた。そのひとりがロバート・デナードだ。彼は微細なトランジスタを、電荷を蓄えたり(1)放出したり(0)するコンデンサと呼ばれる小型の記憶素子と組み合わせた。コンデンサは時間がたつと放電してしまうので、彼はトランジスタを通じてコンデンサを繰り返し帯電させ続けることを思いついた。のチップは、繰り返しの耐電が必要になることから、ダイナミック(動的)・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)と呼ばれることになる。DRAMは今日に至るまで、コンピュータ・メモリの根幹を担っている。

 DRAMチップは、電流の助けを借りて1と0を蓄えるという点で、旧来の磁気コアと機能は同じだったが、ワイヤーとリングを用いる代わりに、DRAMの回路はシリコンに刻み込まれた。手作業での配線が不要だったので、故障は少なく、はるかに微細化が可能だった。

 インテル創業者のノイスとムーアは、デナードのアイデアを磁気コアよりもはるかに高い密度でチップ上に集積できると確信した。ムーアの法則のグラフを一目見れば、トランジスタの微細化が進むかぎり、DRAMチップがコンピュータ・メモリ業界を征服できることは明白だった。


次回、

第Ⅲ部「日本の台頭」

に続きます。


それでは、今回はこの辺で失礼します。


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