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【第Ⅰ部 半導体の黎明期】半導体戦争 要点メモ【NYタイムズ、エコノミスト等各メディア絶賛】
こんにちは。
都内でひっそりと生きる専業主夫です。
今回は『半導体戦争』のメモです。
国際政治の形、世界経済の構造、軍事力のバランスを決定づけ、私たちの暮らす世界を特徴づけてきた立役者は、半導体だった。100人を超える科学者、技術者、CEO、政府官僚へのインタビューに基づいた、衝撃のノンフィクション。
今回も図書館で借りました。図書館最高。
なお、
・2023年2月発行であること
・新書で購入する場合、税込3,000円以上すること
・半導体バブルの影響で需要が高いこと
から、図書館での予約も殺到しており、
1ヶ月以上待ってようやく借りられました。
本作は500ページを超える長編となっていますが、
分かりやすく翻訳されており、すらすら読めます。
この本については
第Ⅰ部 半導体の黎明期
第Ⅱ部 半導体産業の基軸になるアメリカ
第Ⅲ部 日本の台頭
第Ⅳ部 アメリカの復活
第Ⅴ部 集積回路が世界をひとつにする
第Ⅵ部 イノベーションは海外へ
第Ⅶ部 中国の挑戦
第Ⅷ部 武器化する半導体
という構成となっています。
今回は第I部「半導体の黎明期」についてです。
※注意※
著者が個人的に重要と感じた
箇所を”引用”した内容となります。
現在、台湾積体電路製造(略称:TSMC)を超える精度でチップを製造できる会社は世界にひとつも存在しない。2020年、世界が直径約100ナノメートル(1ナノメートル=10億分の1メートル)のウイルスに端を発するロックダウンに右往左往する頃、TSMCの世界最先端の工場「Fab18」では、迷路のように入り組んだ微細なトランジスタのパターンが刻まれていた。その大きさは、新型コロナウィルスの直径の半分以下、ミトコンドリアの直径の100分の1にすぎない。
TSMCはこのプロセスを人類史上空前の規模で繰り返すことに成功した。アップルのiphone12は1億台以上を売り上げたが、その1台1台が、シリコン上に118億個の微細なトランジスタを刻み込んだA14プロセッサ・チップで動いていた。
TSMCの創設者であるモリス・チャンは、中国本土で生まれ、第二次世界大戦時代の香港で育った。彼はハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、スタンフォード大学で教育を受け、ダラスのテキサス・インスツルメンツで働きながら、アメリカの初期の半導体産業の構築に尽力した。米軍向けの電子機器を開発するための機密情報取扱許可(セキュリティ・クリアランス)をアメリカで取得し、のちに台湾を世界の半導体製造の中心地へと押し上げた。
技術者たちは、初期の計算機の機械式装置を電気で置き換え始める。初期の電子計算機は、電球に使われるような金属製フィラメントをガラス管に収めた、真空管と呼ばれるものを用いていた。真空管の内部を流れる電流は、オンとオフの切り替えが可能で、木の棒を上下に移動するそろばんの珠と似たような働きをする。オンの真空管は1、オフの真空管を0とコード化され、2進法を使えばこのふたつの数値の組み合わせでどんな数を表すことができた。よって、理論上、さまざまな種類の計算が実行できるというわけだ。
さらに、真空管のおかげで、このデジタル・コンピュータを何度となくプログラミングし直すことが可能になった。爆撃照準器に搭載されていたような機械式装置は、1種類の計算しか実行できない。それぞれのノブがレバーや装置へと物理的に固定されていたからだ。
真空管は電球のように白熱したので、どんどん虫が寄ってきてしまい、定期的な”デバッギング(虫取り)”が欠かせなかったのだ。そしてまた、電球と同じように、たびたび焼き切れてしまうという難点もあった。
アメリカ陸軍の弾道計算のため、1945年にペンシルバニア大学で開発された当時最先端の電子計算機ENIACには、1万8000本の真空管が使われており、平均で2日に1本の真空管が故障に見舞われた。ENIACはどの数学者よりも速く、1秒間に何百個という数値を掛け算することができた。それでも、1万8000本の真空管の1本1本が拳くらいの大きさだったので、計算機だけで部屋がまるまる占有されるほどだった。
明らかに、真空管技術は扱いづらく、鈍重で、当てにならなかった。一刻も早く、もっと小さく、高速で、安価なスイッチを見つける必要があった。
ほとんどの物質は、電流が自由に流れるか(銅線など)、電流が流れないか(ガラスなど)のふたつにひとつなのだが、半導体は違う。シリコンやゲルマニウムのような半導体材料は、それ自体はガラスと同じでほとんど電気を通さない。ところが、特定の物質を混ぜ、電圧をかけると、電流が流れるようになる。たとえば、シリコンやゲルマニウムなどの半導体材料にリンやアンチモンを加えると、負の電流が流れるようになる。
半導体材料にほかの元素を添加すること(ドーピング)によって、電流を生み出して制御することができる新種の装置を開発する可能性が見えてきた。ところが、シリコンやゲルマニウムなどの半導体材料内の電子の流れを操るのは、半導体の電気的性質が謎に包まれ、未解明のままであるかぎり、遠い夢でしかなかった。1940年代終盤まで、半導体材料の板がこれほど奇妙なふるまいを見せる理由を、誰ひとりとして説明できないままだった。
ワシントン州の田舎の牧場で育った優秀な実験物理学者のウォルター・ブラッテンと、のちに2度のノーベル物理学賞を受賞した唯一の人物となったプリンストン大学卒の科学者のジョン・バーディーンの2人は、ショックレーの「ソリッドステート電子管」の理論に触発され、ゲルマニウムの結晶に金でできた2本の針を押しつけた装置をつくった。2本の針は針金を通じて各々が電源と金属に結ばれており、互いが1ミリメートルにも満たない距離でゲルマニウムに接触している。1947年12月16日の午後、ベル研究所の本部で電源を入れたふたりは、ゲルマニウムを流れる電流を制御することに成功した。
ベル研究所を所有していたAT&Tは、コンピュータ事業ではなく電話事業を営んでいたが、すぐさま「トランジスタ」と命名されたこの装置が、主に同社の広大な電話網へと電話の音声を伝送する信号を増幅するのに役立つと気づいた。トランジスタは電流を増幅できたので、同じく信号の増幅に使われていた不安定な真空管の代わりに、補聴器やラジオなどの装置で使える、ということがすぐにわかった。
8人の技術者はショックレー半導体研究所を去り、東海岸の百万長者が出資してくれた開業資金を元手に、自分たちの会社、フェアチャイルドセミコンダクターを興すことを決意する。
ショックレーの研究所を飛び出したその8人は、現在、シリコンバレーの始祖として広く認められている。そのなかのひとりのユージーン・クライナーは、のちに世界最大のベンチャー・キャピタル会社のひとつであるクライナー・パーキンスを創設することになる。
また、ゴードン・ムーアは、フェアチャイルドの研究開発プロセスを取り仕切り、のちに計算能力の指数関数的成長について述べたムーアの法則の概念を生み出した。
なかでも最重要人物に挙げられるのが、この通称「8人の反逆者」のリーダー的存在であるロバート・ノイスだ。彼はカリスマ性とマイクロエレクトロニクスに対する先見的な熱意を持ち、小さく安価で信頼性の高いトランジスタの開発に必要な技術革新に対する鋭い直感も備えていた。新しい発明をビジネスチャンスに結びつける能力――それこそ、フェアチャイルドのような新興企業が成功するために欠かせない要素であり、半導体産業が花開くのに必要な条件だった。
ソ連の宇宙計画は、アメリカ全土に自信喪失の危機を巻き起こした。宇宙の支配権は、深刻な軍事的影響を及ぼす。政府はソ連のロケット計画やミサイル計画に追いつくための緊急プログラムを立ち上げ、ジョン・F・ケネディ大統領は人類を月面に送り込むことを宣言した。その瞬間、ノイスは集積回路のこれ以上ない市場を見つけた。ロケットである。
ノイスが開発したチップへの最初の大口注文は、NASAからのものだった。1960年代、NASAは宇宙飛行士の月面着陸を実現するための膨大な予算を握っていた。アメリカが月面着陸に照準を合わせるなか、マサチューセッツ工科大学(MIT)器械工学研究所の技術者たちがNASAから託されたのは、アポロ宇宙船の誘導コンピュータの設計であった。
既存の製造工程では、半導体材料の特定部分に特殊な形状のワックスの小滴を垂らしてから、特殊な化学薬品を使って、ワックスに覆われていない部分を洗い流すことになる。トランジスタを微細化するには、より小さなワックスの小滴が必要だったが、そうした小滴を正確な形状に保つのは至難の業だった。
ジェイ・ラスロップは、ゲルマニウム結晶を、感光すると消えるコダック製のフォトレジストで覆った。次に、顕微鏡をひっくり返して、光が長方形の領域だけを通過するように、レンズを特定のパターンで覆った。光がそのパターンに入ると、レンズを通して長方形の形に照射され、上下逆さまの顕微鏡の効果で大きさが縮小した。フォトレジストで覆われたゲルマニウムの上に集束した光線は、長方形のパターンの完璧な縮小版をつくり出した。
光がフォトレジストの膜に当たった部分は、その化学構造が変化し、フォトレジストが洗い流せる状態になる。そして、フォトレジストを洗い流すと、ワックスの小滴では不可能なくらい小さく、完璧な形状をした長方形の穴が残るのだ。すると彼は、非常に薄いアルミニウム膜を追加して、ゲルマニウムを外部電源と接続すれば、”配線”自体をプリントすることもできる、とすぐに気づいた。
ラスロップは、この工程を「フォトリソグラフィ」と名づけた。要するに、光を使ったプリント技術である。こうして、彼は高さ0.01ミリメートル、直径わずか2.5ミリメートルほどという、それまででは考えられないくらい微細なトランジスタを製造することに成功した。フォトリソグラフィは、微細なトランジスタを量産する可能性を切り開いたのだ。
アポロ宇宙船とミニットマンⅡミサイルを誘導したコンピュータは、アメリカの集積回路産業にとって最初の推進力になった。1960年代中盤になると、米軍は人工衛星からソナー、魚雷、遠隔測定システムまで、あらゆるタイプの兵器に半導体を導入していた。ロバート・ノイスは、軍事・宇宙計画がフェアチャイルドの初期の成功に不可欠だと気づいており、1965年には、軍事と宇宙のふたつの用途が「その年に生産される回路の95%以上を占める」ことを認めた。
しかし、彼が常に思い描いていたのは、自身の半導体を購入してくれるいっそう大きな民間市場だった。とはいえ、1960年代初頭にそんな市場が存在するわけがなく、なんとかして創出する必要があった。つまり、国防総省(ペンタゴン)ではなく自分自身がフェアチャイルドの研究開発の優先順位を定められるよう、軍と少し距離を置く必要があったのだ。
最大の問題は、一般市民でも買えるチップをつくる、という部分だ。軍は太っ腹だったが、消費者は価格にうるさい。しかし、相変わらず魅力的だったのは、そんな冷戦時代の国防総省の膨れ上がった予算よりも、民間市場のほうが桁違いに巨大である、という点だった。
フェアチャイルドは世界で初めて、民間の顧客向けに既製の集積回路をすべて取り揃えて販売した。また、民間の半導体市場が劇的に拡大すると見込んで、思い切った値下げも行った。
値下げの甲斐あり、フェアチャイルド社は民間部門で大口の契約を勝ち取り始めた。アメリカの年間のコンピュータ販売台数は、1957年の1000台から、その10年後には1万8700台まで増加。1960年代中盤になると、そうしたコンピュータの大半が集積回路を用いるようになった。
半導体市場は膨張を続け、フェアチャイルドの成功を呼び水に、一流の従業員たちがすでに1人、2人、3人と、競合する半導体メーカーに逃げ出していった。そして、ロケットではなく企業向けコンピュータに照準を合わせる新興企業へと、ベンチャー・キャピタル・マネーが続々と注ぎ込まれた。
ところが、フェアチャイルドはいまだに東海岸の百万長者が所有していた。給料はよかったが、その百万長者は株式を譲り渡すのは「忍び寄る社会主義」(アイゼンハワー大統領が経済活動への連邦政府の積極的な介入を揶揄して使った言葉)の一種だなどと言い、従業員に自社株購入権(ストック・オプション)を与えることを拒んだ。
結局、フェアチャイルドの共同創設者のひとりであるノイスさえ、この会社にいて未来はあるのか、と思い悩むようになる。すると、たちまち全員が出口を探し始めた。その理由は明白だった。新たな科学的発見や新しい製造工程だけでなく、大儲けできるチャンスもまた、ムーアの法則を後押しする協力な原動力だった。
次回、
第Ⅱ部「半導体産業の基軸になるアメリカ」
に続きます。
それでは、今回はこの辺で失礼します。
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