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<精神性と身体性の時代へ3>エルダーシップのススメ

コロナ禍が始まった頃に最初の記事を書いて、途中で自分で読み直しても精神性が怪しいんだか怪しくないんだかよくわからない記事を書いて、今読み直してなんだこりゃ???とか、やれやれ、自分が怪しさと向き合いきれていない証拠だなと思いつつ書き直す気にもならず、まあ、そのままありのままのだめだめな自分として社会に晒しておくことにして、3回目を書こうとしている。そんな今は、新型コロナと言われたウイルスによる感染症は5類に移行して、ある意味普通のインフルエンザになったというのが私の認識である。

それまで対面が基本だった私のセミナーやワークショップはコロナ禍でほぼぼオンラインとなり、その時とまどいがなかったといえば嘘になるが、身体性の活用を制限される環境でもできるトライアルの中でオンラインならではの俯瞰的アウェアネスがもたらす効果、また、メタバース実験などもさせてもらってそれなりに学び多い時間になったし、対面が徐々に可能になってきている昨今でも、目的によって使い分けする時の前提に関して、関わってくださるみなさんと共有できたナレッジも多い。
特に、非線形のシステムを感情や感覚を伴った知性とともに扱う際でも、複雑系の事象に対してオンラインビジュアルツールを組み合わせると、起きていることがら全体を俯瞰しながらそれを作り出しているシステムを思考的に理解しやすいことや、メタバースはバーチャルながら案外身体性が取り込めること、VRを使うと普段よりロールに没入して深く体験できる人もいることなどの仮説が検証できたのは興味深く、探求の余地がある分野である。

その一方で、ソーシャルディスタンスが緩和方向にある中で、私の腹の底から否応なく湧き上がってくるのが、この「エルダーシップ」である。

「エルダーシップ」という言葉は耳慣れない方もおられると思うが、一般用語としては日本語なら「長老」というあたりだろうか。まあ、私の感覚だと必ずしも「老」である必要性は全くないので、多少違和感はあるのだが。

この用語を使う理由として、私のプロセスワーク時代の師匠であるアーノルド・ミンデル(通称アーニー)が、とある先住民のエルダー(長老)と親交を深める中、彼が自分の村のすべての人を大切にする姿を見て、その在り方を「エルダーシップ」と呼んだことから、組織開発などに関わる人々の間で使われる用語となっていった経緯がある。
彼らにはかなりの差別を受けてきた歴史があるが、実際にお会いすると実に爽やかに全てを受け止める姿勢が素晴らしいので、「どうやって犠牲者の傷つきを乗り越えたの?」と思わず尋ねたら、「あはは、飽きたんだよ。」と文字通り爽やかに即答いただいたのを今でも覚えている。

アーニーの定義はご本人の著書「Sitting in the Fire」(最新邦訳「対立の炎にとどまる」英字出版)を参照されたいが、彼を含めた師匠からの学びと自分なりの体験といろんなところからの知恵をいただきながら探求してきた今現在、エルダーシップとはと聞かれるなら、私の一番シンプルな答えは以下のようになるだろう。

エルダーシップとは、自分自身の命を生きようとすること

システムアウェアネスより

は!?なんのこと?と思われるかもしれない。
もう少し言うと、

エルダーシップとは自分自身の存在の源、つまり”いのち”とつながりながら、自分自身の全体から日々を生きようとするような在り方のことだ。

このような言い方をすると、他者の存在はどうするのか?それは自己中心的ではないのか?という声も聞こえてきそうだが、それは人が意識の中心である「自我ego」を生きようとした場合のことだ。自分自身の「存在の源」は、無意識を含むこころの全体の中心としての「自己Self」であり、いのちを生きるとはこの「自己Self」から生きようとすることで、そう生きようとすると、否応なくそれは他者を受容しつつ自分を生きるということになっていく。アーニーの出会った村のみんなを1人残さず大切にしながら日々を生きる先住民のエルダーの在り方にも、私はそのようなものを感じた。

ええ〜、
そんなのダライ・ラマとかマザー・テレサの世界ですか?誰もができることじゃないでしょ。
などと反論されるのはまだましで、それこそ怪しい、、、と黙って去って行かれる方もおられるのだと思うが、一言で表現すると、どうしてもこんなふうになってしまうのがエルダーシップだ。

でも、よく考えればこの世に生きて存在しているからには、存在を源から生きようとしない”いのち”は草木から人に至るまであり得ないというのは自明のことでもあるだろう。今日の文化の中で生きる私たちの多くが、そこに注意を向けてアウェアネスをもとうとするように習慣づけられていないので眠ってしまっているだけで、実は本当は誰もがエルダーな在り方を持っている。
実際、長老どころか幼い子供がエルダーシップを発揮して家族システムを支える瞬間を見掛けることも多い。かれらは”いのち”の感覚に近いのだろうなとさえ思うくらいだ。
だが、ダライ・ラマやマザー・テレサくらい突き抜けてしまえば誰もが納得して受け入れることができるけれど、大人の日常の中では、未知でちょっと怖いものとして周縁に追いやってしまいたくなるのがこのエルダーシップかもしれない。

しかし、未知なものに出会った時に誰もが自我(ego)レベルで抱く恐れをしばらく脇に置いて、敷居を越えるように誘ってみると、少なくともその時間は、案外みなさんすんなりとそれぞれのエルダーな在り方に繋がってくださる。

誘うための媒体はいろいろある。このマガジンとは別に気ままに書いていたnote "ソイルフルネスSOILFULNESSのススメ~自分が自分に立ち返って日々を過ごすために”でご紹介した土に少し意識的に注意を向けて関わってみる体験もその一貫で、結構強力だし、文脈によっては自分が長老になった未来や尊敬する賢者のロールから入っていただくこともある。逆に人生の最早期の体験から入ることもあるし、もう少し遡って家系を辿って自分のルーツを血統から振り返ってみることもある。
また、時には対立の中に飛び込んでいってその場で探求することもしばしばだし、逆にさっと手を動かしてみることが、入口になることさえある。

そんなふうに聞くと、また「怪しい」と思われる向きもおありかと思うが、身体知の腑に落ち感を伴わないと掴みきれないエルダーシップは、認知と思考が中心になる現代社会では、私たちが慣れ親しんだ日常意識からは結構かけはなれたところに生息しているので、そこにアウェアネスを向けるために使う普段とは違う注意力に目覚めていただくのにはちょっと怪しい仕掛けが必要なのだ。そして、その入口を見つけようとしてその場に臨めば、さまざまな形で私たちを誘ってくれていることがわかる。
入口によっては、ご自分自身のエルダーシップを探求している最中は、普段とは違うので多少怪しげだが、しっかりそのエッセンスを掴んで戻られた時には、地に足が着いていながら生き生きと放たれるいのちを感じさせる人になっておられることが多い。

実際、不思議なもので、そんなふうにご自分の実在と繋がっている時には、普段は周縁に追いやってしまっている自分の内外の多様性に開かれるスペースが開かれる。けれど、スペースに開かれたからと言って、自分の存在を生きることを手放しはしない。お互いの存在の根っこの多様性を尊重しながら、ある時はつながり合い、ある時は棲み分けながら、お互いの自然のいのちを全うしようとする姿が立ち現れる。
残念ながら、日常の全てをこんな意識で過ごせる社会が訪れるには、まだまだ時間がかかるけれど、実際、エルダーシップを取り入れて作った場では、誰かがそこから外れてエゴに囚われてしまう時、愛を持って存在につながり直していくことがサポートされるし、時には違いを尊重して棲み分けるということも起こる。それぞれは、自分のいのちからの願いに向かって日々を生きるべく自分の力も使い始める。そんな経験もさせてもらった。

そんな深い感動を伴う場面に立ち合わせてもらう体験を経ると、エルダーみたいなあり方を誰もが持っているという価値観があたり前になり、一人一人の存在に対して絶対の信頼と愛があたり前になる日もいつか来るんじゃないかとどうしても思えてしまう。

私自身の力不足で、だれかに「怪しい」と言われて、悲しくなったり凹んだりしながら這い上がるみたいな日もあるし、一度に多すぎる人数を扱うにはホールド力が足りないから草の根運動だし、時間がかかりすぎてはいるけれど、どんなに抗っても、やっぱりここに戻ってしまうことを3年の歳月を経てようやく観念した。

そもそも、”精神性と身体性”なんてタイトルで書き始めること自体が、結局多くの人にエルダーシップに繋がってほしいという願いからなのだ。
そう、他にもいろいろできることもやりたいこともあって、それらも私自身の存在の源から発露しているものに違いない。
けれど、一番深いいのちの願いと繋がっているのは、やはり、こころの領域にある精神性と、身体の領域にある身体性にいつしか袂を分つことになった二つの知性が”一なる世界”に還った時に立ち現れるこのエルダーシップなのだ。

しみじみそのように思い至った今、じっくり練り込みながら、みなさんをエルダーシップに誘えるような場を作っていこうと思う。



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