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「ありがとう」を言ったら友達失格?

友人がこんなメモを書いていた。

今日ひとつカルチャーショックをうけた。
バングラデシュでは、仲が良い人にほど「ありがとう」を言わないらしい。

「ありがとうは他人に使う言葉で、ありがとうって言われたら友達じゃないってことだから、ありがとうって言わないで。」
そう言われてびっくり。

「バングラデシュではたとえ友達から何億円をもらったとしてもありがとうとは言わないよ。それぐらいしてもらうのが当然って思ってる。友達なら当たり前にすることに対して、わざわざありがとうとは言わない。」

世界はまだまだ広いし知らないことがいっぱいだ。
異文化交流は面白い。

これを読む前日に、私は韓国ドラマを見ていた。

ヒロインが恋人に対して全然ありがとうを言わないことに違和感を感じていた。仕事が忙しい彼女を気遣って、ご飯を買ってきてくれた彼に対して、ありがとうは言わずに食べ始めるシーンなど。

そんな時に、タイムリーでこの友人のメモを見たので、この件についてじっくり考えてみた。

まず、なぜ私が「ありがとう」を言わないことに対して違和感を抱いたのか?恐らくそれは、私自身が普段から「ありがとう」を伝えることを意識しているからだ。

人から感謝されることは嬉しいことだけど、自分が感謝の気持ちを伝えるということもまた嬉しいことだと思うのだ。感謝を伝えるということは、他人が自分に対して何かを施してくれたということ。そして、他人が自分に対して何かを施してくれるということは、決して当たり前ではないということ。

だから、ありがとうを伝えるという行為には、当たり前ではないことを施してくれた相手に対する感謝の気持ちと、人に何かを施してもらえるほどの行動をしてきたんだと自分を認めてあげる気持ち、両方が込められていると思うのだ。

「友達が1億円をくれたとしてもありがとうを言わない」というのは、私にとっては想像できないし、それを当たり前だと思えるその心もわからない。だけど、もし本当にそんな文化が存在するのだとしたら、めちゃめちゃ豊かな文化なのではないか?そう思ってしまった。

人に何かを与えることを当たり前とし、困っている人を助けることを当たり前とする。そこに金額の大きさなんかは関係ない。

全ての人がこの考え方を持っていれば、与えることも、また与えてもらうことも当たり前だと自然に思えるのかもしれない。損得勘定が一切存在しない世界というわけだ。

また自分に置き換えてみたときに、たしかに、友達が本当に困っていたとして、自分から手を差し伸べるとき、「ありがとう」を言ってもらいたくて手助けするわけではない。

見返りを求めるくらいなら与えるなということだ。

これを書きながらなんとなく整理ができてきた。

手を差し伸べると決めたら、1億円だろうと、100万円だろうと、お金ではない物質的支援だとしても、見返りは求めない。それが本当の友達である。だから、その愛をありがたく受け取るのだ。

そういうことなのだろうか?だとしたら納得できる。

それでもやっぱり「ありがとう」は伝えていきたい私である。

…後日
このお話を他の友人にシェアして気付いたことがある。

それは、「申し訳なさそうにありがとうを伝える」のはよくないということ。

渡し手が好意100%で行ったこと(例えばプチギフトを渡すなど)に対し、申し訳なさそうにありがとうを伝え、申し訳なさそうに後日お返しの品を渡したら、「あぁ、逆に気を遣わせちゃって申し訳なかったなぁ」と渡し手が思ってしまうからである。

だから、結局のところ、好意を受け取ったらありがたく受け取り、その愛を他の人にも同じように施していけば良いってだけのことなのかもしれない。

おわり。


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#06. 愛は循環している


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sy
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