エンプティ③
急がなくては。
家を出るときには小雨だったのに、すっかり雨粒が大きくなっている。
ああ、どうして自分はこんなことを…と何度も思った。ただ、そう思ったところで抑えられるものでもなく、僕は走っていた。
肌に当たる雨が冷たい。雨は確実に僕の体温を奪ってはいたが、この焦燥感までは冷ましてくれなかった。
地下鉄を降り、駅を出てもう10分くらいだろうか。駅前の道は少し混雑していて、色とりどりの傘が路上に咲いていた。
近道。
ちょうどいい路地がある。ここを抜ければかなりのショートカットになるはずだ。
昔から土地勘は良かった。俯瞰視点のゲームでも「東ってどっちだっけ?」なんて思ったことがない。大型のショッピングモールでも、大体のお店の位置、トイレの場所、出入り口、車をどこに停めたなど、今まで一度も"迷った"ことなどないのだ。
この路地はきっと"近道"になる。僕はそこへ足早に入っていった。
路地に入ると雨足は少し衰え、降りすぎるでもなく降っていた。
それでももう僕の身体はびしょ濡れで、額から流れてくる水が視界を邪魔する。
走りながら顔を拭ったその瞬間。鈍い衝撃が走った。
しっかり拭い終えてみると、目の前に男の人が倒れている。そうか、僕は人とぶつかってしまったのか。
が、あまり時間が無い。もうこのまま行ってしまおう。
「え…?」
倒れた彼が不思議そうに言った。
スーツが濡れ、髪が、顔が濡れ、頭上には大きい「?」が見える。
「ごめんごめん」
思わず声が出た。
それが目の前に倒れている彼になんとなく"波長"を感じたからだったと気づいたのはもう少し先の話になる。
この時の僕は自分でも不思議だが、何故か声を発してしまったのだ。
「今、確かに声が…」
何が起こったか分からないだろう彼が言う。
なんとなく、独り言を言っている人間を見るのは滑稽だなぁと思ってしまった。
まぁ、僕がここにいる以上"独り言"にはならないのだろうが。
僕なりに誠心誠意の謝罪を述べ、ひとまず視線の先に見えた階段の入口へ促した。
路地裏には他に人影もなく、この空間だけ世界から切り取られたようだった。
「あーあ、こりゃもう着替えてーな…」
確かに彼のスーツは既に乾いているところを探すのが困難なくらい濡れていた。
可哀想だな、と思った。
彼の顔には明らかに疲労が伺えたし、眼の奥には光がなく、今にも何か事件を起こしそうな表情だったからだ。
何か、してあげたかった。が、しかし、今は急がないといけない。
コンクリートの壁に貼り付けられた安っぽい時計は17時28分を指している。やばい。
僕は彼に半ば強引ではあるが電話番号を伝え、この場を去ることにした。
未だ雨の感触は冷たく、歯がカチカチと震えだしていた。
全身がぴりぴりと寒がっているのに、何故か寒さを感じず、むしろ気分は高揚していた。
あの人、なんかいいな…。
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