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AOAZA.

「あっ、まただ…」

加奈子は自分の左内腿を覗き込んでいる。

その日は特別暑かった。さっき観たニュースでは『猛暑日』であったことを報じており、画面の中には日中の茹だる街が映されていた。

駅横の、割と大きめのショッピングモールに入っている帽子屋『fly high(フライ・ハイ)』で加奈子は働いている。冷静に考えるとひどい名前だ。どうしても帽子が空高く飛んでいってしまう画を想像してしまう。

そのショッピングモールには、涼しさを求めて沢山の人がやってくる。

その時間レジ打ちのシフトに入っていた加奈子は迫り来る雪崩のような会計を一人でさっさとこなした。レジ打ちは得意だ。華麗に、かつ丁寧に一連の流れを済ます。

意外かも知れないが、これだけ暑いと帽子はよく売れるのだ。

フライ・ハイでは大人用、子供用、そして女性用、男性用と多数の帽子を用意してある。ハット、キャップ、ニット帽に麦わら帽子まで。しかもそれらは他店と比べるとかなりリーズナブルなのだ。

「痛っ!」

会計待ちの行列が落ち着き、バックヤードへ少し飲み物を飲みに行こうと接客担当で店内を歩いている同僚の万千代に一言声をかけようとしたその時だ。

レジカウンター内へ入るには片方を丁番で止めただけの簡易的な扉が設置されているのだが、その扉の角に内腿を食い込ませてしまったのだ。

人間の急所というのはいくつかあるのだろうが、今まで内腿というのは聞いたことがない。が、加奈子は思わずそこに座り込んでしまった。激痛が脳内と身体を支配していた。

万千代が慌てて駆け寄ってくる。

「え!ちょ、かなちん!?大丈夫?!」

痛みは1分程で沸点を迎え、やがて穏やかに引いていった。

顛末を聞いた万千代は笑っていた。

風呂あがり(と言ってもシャワーだが)、寝間着の短パンを履いている時に加奈子は気付いた。あの時の痛みはそこにしっかりと形を残していたのだ。青痣として。

しかし実際には青というよりも紫色に近い。

円状に形を成しているそれは、中心に向かうほど色が濃く、周りはどちらかと言うと赤色だ。

気付いた瞬間、その青痣から再び鈍痛を感じる。

まるで少年漫画の敵が「死んだと思ったか?残念だったな」とでも言うように。

じわりじわりと加奈子の痛覚に響く青痣の痛み。

声を上げるようなものではないが、確かに痛みと青痣はそこにあって、加奈子の思考のほんの一部分を占拠していた。

昔、男にフラれた事があった。

その男は「他に好きな人が出来た」と言ってはいたが、そんなのはただの浮気だ。

加奈子は絶対に許せなかった。不貞。下衆。屑。

しかしそう言われてしまった以上、その男にかける愛情があるはずもなく、表向きにはあっさりと別れを承諾したように見せた。

その数日後、加奈子はレンタルビデオ店である映画を見つける。

その映画は海外のアクション映画で、屈強な男がひとりで大勢の悪人を懲らしめるという勧善懲悪スタイルのものだ。

そしてその映画は、加奈子に別れを告げたあの男が大好きだったものだ。

瞬間。加奈子の心臓がどくん、と鳴る。

呼吸が少し荒くなり、身体の火照りを感じる。

加奈子は風邪をひいたのだ。

なんでもないと思っていた出来事は、実は身体に大きなダメージを与えている。

忘れたように見せても、痛みを感じなくても、この身体は知らぬ間に、だが確実に数々の銃弾を被弾していているのだ。防弾チョッキなどない。あるとすれば銃だ。悔しかったら攻撃するしかない。誰かを傷つけるしかないのだ。

人間の業は深く、黒い。

加奈子は再び自分の身体を見る。

そこには他にも知らない青痣がいくつかあった。きっといつの間にか傷ついていたのだろう。それらを手のひらで軽く撫でていく。

あるものはぷくん、と腫れていたり、あるものは撫でるだけでも痛みを感じるものがあったりした。

そうしながら時計を見ると、寝なくてはいけない時間をはるか2時間越えた数字に短針は矢印を向けていた。

眠らなきゃ。あの深くて暗い闇の中へと。

翌日。

気候は比較的穏やかで、暑くはあるがカラッとしていて、どこか心地いい風が吹いていた。

加奈子は住んでいるマンションのエントランスを抜け、職場へと歩きだす。

内腿に鈍い痛みを帯びながら。苦い記憶を引きずりながら。

遠く向こうで立ち昇った突風に、誰かの麦わら帽子が飛んでいる。

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