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昭和三十年代 柳ヶ瀬商店街の思い出


朝イチで白川口から高山線の蒸気機関車に乗り那珂で乗り換え岐阜へ。岐阜の柳ヶ瀬商店街を颯爽と歩く母。そしてついて歩くのに必死だった僕。朝からひとが出て活気があった。先ず下駄屋さん、靴屋さん、そして種屋さんと、田舎で始めたお店の仕入れのためだ。ひととおり終わると、必ず映画館で、封切りを観る。僕はよくわからなかったが母はいつも、ハンカチで涙を拭っていた。覚えがあるのは「喜びも悲しみも幾とし月」これは今で言えばロードムービー幼くても理解できたな。思えば母は御多分に洩れず当時佐田啓二の相当のファンだったようだ。僕の映画好きのルーツであるな。映画館を出ると、喫茶店で、僕はパフェ、母はレモンティーと決まっていた。子供目にも、母は角砂糖を幾つかスプンで入れ最後にレモンを浮かべ恥ずかしいほどの上品な手つきで、それを楽しんでいた。帰り路は和菓子屋さんのお土産の「上品な餡の詰まった太鼓焼」を10個買うのだ。あんな極貧の田舎の生活の中で、いったい母はなにを考えていたのだろう。あの贅沢は何だったのだろう。まるで理に敵わない不思議な月一回のおきまりの旅だったのだ。

突然の父の死で、順風満帆の運送会社の社長夫人で、輸入品の高級英国紅茶を銀のスプンで啜るような暮らしから、借財に追われ極貧の宿無し親子になったのだから理解できなくもないが。母の店は、山奥の田舎で革靴が売れるわけもなく、早晩たたみ、絵に描いたような大きな緑色の唐草模様の大風呂敷に下駄や鼻緒や金具を包み、山路を二人で歩く行商渡世となったのだ。僕の兄弟は常々「お前はまるで松本清張の砂の器ような親子暮らししたね」などといわれたものだ。二人の兄は、それぞれ別家庭で育てられ僕だけは母の手元で育ったのだ。元々商人魂微塵もない母だから友達同級生の家々を訪ね歩くだけの商売なんてまるで算盤は合わなかった。僕は母のご友人方に支えられて育つことが出来たようなものだ。感謝しかない。母は俳句の心得が少しあり、当時田舎の黒川にも句会がありよく参加していて、行商の山路で休むと、包み紙の端に鉛筆で思いつくと書き殴っていたのを思い出す。ああ、母の作品が残っていればよかったか、いやそういう心をもっていることがしあわせのようなものだと、今では思える。

貧しくも、映画を愛でるこころ、美味しいものは食べるこころ、明日なんて考えなかった行き当たりばったりの母は、それなりに楽しく過ごそうと懸命に生きていたと想えるのだ。懐かしい柳ヶ瀬商店街のそれぞれの商勢は如何。元気な街であって欲しいと祈るばかりだ。

柳ヶ瀬は母の夢の街

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