Twitterにおける政治的発言の前に

政治的なトピックについてTwitterで発信する際に、より建設的な議論をするために必要だと私が考えたことを書きたいと思います。政治的発信をする方々に対する私からの提案として受け取ってくだされば幸いです。

0.「政治的発言」

本稿における政治的発言とは、政権に関する意見や統治機構、行政運営の事案等についてだけでなく、ある事項につき、それをいわゆる「社会問題」として発信し、他者の認識や行動の変容を促すことを目的とする言論一般を意味します。個人的なことが政治的なことである可能性がある以上、トピックそれ自体による制約を許すのではなく、「それがいかなる意味で社会問題といえるのか」を説明できる事項一般につき「政治的」であると考えるべきです。

なお、社会問題というための条件に関する基本的な考え方としては拙稿(「日常でイキル法的思考とやら」の⑤問題と課題)を参照ください。理由全体をみたとき、それが何らかの社会的価値や公益に結びつくことであればまず大丈夫でしょうから、困ったら憲法の条文とコンメンタールを見ましょう。何とかなります。

また、社会問題性を説明「できる」というふうに、説明可能を要件としたのは、当然知っているだろうと思われる場合にまで説明する責任を肯定する必要がないと考えたからです。たとえば現代日本で殺人事件が増加したと仮定した場合に、それが生命という法益を侵害するものであり、刑法199条の殺人罪に当たる行為の頻発は法秩序および社会秩序の崩壊につながりかねないために防止する必要がある社会問題である、などと説明する責任まで肯定するのは発言者に対して過酷と思われます。

1.Twitterという媒体

このような政治的発言をするにあたり、Twitterにおいて注意すべき点があります。それは、ある結論を支持するための理由を示さないことを助長するメディアであるということです。その原因は以下の通り。

第一に、Twitterでは、通常上限が140字という文字制限がある(リンク扱いなら別らしいですが)ために、ある構想を発信する際、根拠を割愛して結論だけ示すような論の提示の仕方をせざるをえないことがあります。もちろん、リプライツリー(スレッド)にツイートを追加することもできるのですが、フォロワーのタイムラインに長々とスレッドを載せることとなってしまい、フォロワー数が減ってしまいかねません。そのため、フォロワー数を気にする(政治的な影響力とも関係しそうですし)方は結論のみを示すことにつながるのだと思います。

第二に、フォロワーとの同質性が高いアカウントは、理由をとくに示さなくても「そうだそうだ!」という同意や援護を調達することができます。いわゆる「エコーチェンバー」として同質性の高い意見を目にしたり、自らの意見に対する肯定を得やすかったりするわけですが、それゆえに理由を示す必要性を感じにくいのだと思います。

2.説得・議論のルール

政治的発言は、他者(自分以外の人、とりわけ自分とは認識や意見の異なる人)に対してはたらきかけるものです。すなわち、他者に理解されなければ言論として意味をなさないということになります。理由を示す必要は、まさにこの「他者」を説得することから生じるわけです。理由もなしに認識・意見の異なる人が急に「その通りだね!」なんて言ってくれません。

理由を示すことは、同時に批判・検証を受けつけるということにもなります。たとえば、ある事実を根拠として提示したときに、「そんな事実はないよ」という批判がなされうることになります。その批判が正当である(この場合は当該事実が存在しない)場合、こちらの示した理由は結論を支持することに失敗していることになります。反対に、批判が正当でない場合は、こちらの理由は批判者に対して結論支持を促すものになります。

つまり、説得・議論は、理由(とその正当化)と、それに対する批判・検証のラリーをすることを通じて、結論が支持されたか否かを争うことといえます。

(ただし、結論それ自体が人権侵害にあたる行為を肯定するものであるなど、結論のみを以て否定するべき理由がある場合にはこれにあたらないことに注意してください。その場合には結論を否定する理由を示せばよいでしょう。以下、このような場合については割愛します。)

このゲームの勝敗が説得の成否であって、「批判は正当やけど結論としてはこちらが正しい!」や「何も批判できないけど反対だ!」などということは、説得・議論という土俵に上がった以上は許されません。これらは個人の信念や信仰の独白であって、他者を相手とする説得や議論にはあたらないからです。

なお、ここで重要なことのひとつは、示す理由によっては、別の理由で正当化されうる結論であっても正当化できない場合があるという相対性を認識し、そのうえで、ありうる理由のうち最も適切な理由を示すことが必要であるということです。つまり、他者を動かしたいのであれば、自分の頭で必死になって説得する理由をひねり出さねばならないということです。お互い頑張りましょう。説得できるとは限りませんが、ベストを尽くしましょう。もし無理なら、説得や議論などは諦めましょう。それは今のところ自分個人の「お気持ち」でしかありません。そのことを受け入れたうえで、理由を見つけようとするならば本などに頼りましょう。

3.Twitterの弊害

このように、他者を相手とする説得・議論においては理由を示すことが必要なわけですが、前述の通り、Twitterでは理由を提示しないままに結論のみを発信する誘因があります。さらに、理由を提示しない言論は、同質性のある「身内」からの、理解なき共感を調達する一方で、認識や意見の異なる他者による反論を不可能、または著しく困難なものにします。批判・検証の対象となる理由が明確でないために、他者にできることは、「おそらくこういう理屈でこの結論にたどり着いたのだろう」という推測に基づき反論することくらいになってしまいます。

そうすると、批判・検証の対象は元の言論と異なるものになるおそれがあり、仮に批判・検証した結果、理由が不十分な場合であっても、その批判・検証(反証)に対して「そんな理由に基づき話していない」などと(嘘でも)退けることができてしまいます。批判・検証側に徒労を強いるわけですね。他方、政治的発言をした側からすれば、批判・検証の対象を批判・検証(反証)しやすく捏造されてしまい、いわゆる「藁人形論法」を許すことになってしまい、双方にとって望ましくありません。

にもかかわらず、理由を示さない言論がなされているため、言論そのものとは無関係の、個人の属性に基づく攻撃(結論の支持/不支持を特定の属性や性質に還元するやり方ですね)であったり、共感した「身内」による数のパワーで押しきるムラ社会アタックであったりがなされているのが現状なわけですね。

4.対策

それでは、Twitterにおいて政治的発言をするとき、どのようにして行うべきなのでしょうか。Twitterを使わないというのは「Twitterにおいて」という条件があるためナシとして(残念ではありますが)、考えられるのは次の三つです。すなわち、①スレッド機能を使って理由を明示する②長文で理由を示し、その結論をツイートする際にリンク等を貼って閲覧可能にする(スクショを貼るのもこれに含みます)、③理由・結論ともに論理の要点をまとめて提示し、理由の正当化は批判・検証に応じて補足的に追加する、(決して新たな理由を後付けするのではなく)ですかね。

フツーのお話になってしまいましたかね。まあいいや。

5.無責任論法

私がここで排除する理由提示の方法が、「~という本を読めばわかる」や「~学を勉強すればわかる」といういわゆるクソリプ的な、理由の「外注」です。要は、「自分は答えられないけど代わりに誰かに聞いて」ということですが、私はこれを「無責任論法」とよびます。「今、俺とお前が喋ってるんやけどなぁ!」というお話ですね。

たしかに、専門的な知識や見識によって正当化される結論はあるでしょう。というか、ある分野で特定の結論を正当化できるから専門的な知見になるのかもしれません。しかし、そこにおける論理構造の概要や用いられる概念、分析手法を説明することくらいは「理由」として提示するための必要条件でしょう。

まず、参照すべきという対象を、その人がどのように捉えているかがわからないため、その人に対する反論ができない(仮にしても「ちゃんと読め」とか「勉強不足」などと返されるだろう)こと。参照すべきというのは、一定の観点から有意義な知見がそこにあり、その知見の意義が何なのかを自らの責任で示してはじめていえることです。学術論文における引用や参考文献は、ある文献で「「◯◯は××である」とのことであり、云々」というふうに、執筆者にとっての位置付けを明示するでしょう。あれは、執筆者の責任で理由付けの一つとして参照したものの意義を示しているわけです。もちろん、執筆者のオリジナルな部分ではない、という消極的意味を含むわけですが、それだけならば、「引用元にはそんなこと書いてないぞ」なんてツッコミはありえません(執筆者のオリジナルでないことのみを以て十分ならば、執筆者が別の本で読んだことをある本に書いてあったとしても構わないことになる。そんなわけないじゃん)。引用元から引用することが、引用という形での再定位であり、それが執筆者の責任である証左でしょう。もしも再定位につき執筆者に責任がなければ、「文献A足す文献B=あるXはYであるという新発見ができた!」で学術論文は完成です。よかったね。

また、ある結論を支持する理由が、ある本や学問において、具体的にどう示されているかくらいは説明してくれないと調べることすらできません。

要するに、無責任論法は、根拠となる自らの具体的な理解(再定位)を示さず、また、アクセスができないものを理由と見せかけることで反証の機会を不当に奪っているといえるのです。反対に、根拠となる概念や論理、分析手法などをそれなりに具体的に示して当該議論における意義を示し(再定位)、その反論に対して再反論を自ら行う用意がある場合には、無責任論法に該当しないといえるでしょう。だからこそ4.対策に③として登場してもらったわけです。

無責任論法がOKなら、「は?ちゃんと読めてねえなお前」が一生使える無敵の論法になります。本人が理解していなくても使えますし、主張に責任とらずに済むだけでなく、相手方の能力不足を想定し、ある結論を支持しないのを相手の過失として処理できる、コスパ最強の論法ですよ。そんなのありかよ。無責任論法を使った場合、理由を示していないのと同じ、ということを理解しておく必要があります。

よって、無責任論法は、理由を示さない場合の問題、すなわち、3.Twitterの弊害のところの内容がそのまま当てはまります。

6.「ツイフェミ」について

私は、何らかの価値に基づく優劣を性別に対応させ、性別という属性にのみ基づいて不利益を個人に帰属させることには反対です。この文の「性別」のところを人種、門地などその他の属性に置き換えても同様です。すなわち、私は個人主義者ですが、同時にフェミニストといえるかもしれません。いや違うかもしれないけど(私がフェミニストが否かの認定権は私自身にしかありませんが、まだ認定していません)。

ところで、二項対立の思考法の多くは、同一項内部の差異を過小に見せ、他方、項の間の差異は過大に見せること、また、二項に含まれない要素を無視させることなど、事実認識レベルでの誤りのおそれがあるため警戒が必要だと思います。しかし、今回は「ツイフェミ」という問題の性質上、「男/女」という区分を便宜的に用います。ご容赦ください。

Twitterをやっていると、ときどきフェミニストを名乗る方のツイートと、それに対する賛否両論の反応を目にします。このような、Twitterにおけるフェミニスト、いわゆる「ツイフェミ」の方と、それに対する非難を見ていて思うところがあり、本稿を書いています。

前述の通り、私は個人主義者として現在自己を規定しており、個人主義の観点から、男女ともに性別以前に個人として尊重されるべきと考える点でフェミニズムに共感するところがあります。

しかし、ツイフェミの方々の発言のなかには、男という性別に何らかの悪性を認めているように思われるものであったり、ミラーリングとして男性蔑視を正当化しているように思われるものがあります。これらは、性別という属性にのみ基づき不利益を個人に帰属させようとする、性差別そのものでしょう。フェミニストというよりかはミサンドリスト的な発言です。

これらは個人主義と両立せず、私は支持できないしすべきでないと考えます。男女平等という規範的な理念に基づき、平等な個人として女性は尊重されるべきだという理路ならば賛同しますが、これらのミサンドリスト的発言は、その規範そのものに反するものです。たしかに、ミラーリングが、「男にわからせてやる」ために「やられたらやり返す」というのを正当化しているように見えるかもしれません。しかし、人権等は、そのような相互主義の射程外の概念です。また、目的は一般に手段を正当化するものではありません。目的としての男女平等に明らかに矛盾する手段なら尚更です。さらに、「男にわからせてやる」ために必要最小限の手段というわけでもなく、対話を放棄しているにすぎないと考えます。ミラーリングは「ミイラ取りがミイラ」状態を産み出すだけではないでしょうか。ミイラリングといったところでしょうか。

さて、最近では、ナインティナインの岡村さんの「今の不況後に若い女性が風俗業に従事するのを待つ」旨の発言がありましたね。この発言は、そもそも貧困の原因として女性の職業選択の自由が実質的に制約されていること、貧困そのものが生存権にかかわる問題であること、貧困の結果、さらに職業選択の自由が制約されてしまうことなどの現実を前提にした発言です。これらの現実の問題は解決されるべき問題で、これらの問題の未解決を望むような発言はすべきではありませんでした。

さらに、このように職業選択が実質的に自由に行うことができないとき、その職業が何らかの自由を制限するのであれば事実上の権利侵害といえるでしょう。風俗業に従事することが、性的自己決定権の制約を意味するのであれば、貧困により選択の余地のない人については性的自己決定権の侵害にあたるものでしょう。使用者および顧客は、貧困につけこむことで性的自己決定を歪ませていることになります。これは自己決定権の侵害にほかなりません。岡村さんの発言は、これを無自覚に助長するものであったと思われます。

なお、このことは、性的自己決定のあり方として風俗業に従事することを否定することにはならないことに注意しなければなりません。自己決定を行えない場合に、そこにつけこみ自由や権利を侵害することが問題なのであって、自己決定として性的サービスを提供することは、自己決定として他のサービスを提供することと等価であるべきです。

岡村さんの発言は、これらの現実の問題を問題として認識していなかったことに由来するものでしょう。だから、岡村さんに対しては、それらが問題であること、もっと言えば、「それがいかなる意味で社会問題であるのか」を理解してもらう必要があります。しかし、そこまでです。彼の落ち度は、あくまでも現実の問題状況につき予測を口にし、それが望ましいという態度をとったことであって、現実の問題状況を生みだしたわけではありません。差別の再生産をしたといえる限りで岡村さんに責任を求めるべきであって、差別それ自体の責任すべてを彼個人に帰属させることは適切ではありません。

しかし、この発言をうけた一部のツイフェミの方の反応はどんなものだったでしょう。本稿で説明いたしました、ムラ社会アタックや、いわゆる「非モテ」属性に基づく人格攻撃が行われました。また、無責任論法もありましたね。

もちろん、ツイフェミの方々のなかでも岡村さんの(ひいては社会の)認識不足が原因であると考え、その改善策を打ち出そうとした方もいらっしゃいました。岡村さんに、ジェンダー差別について学ぶ機会があるようにすることは、岡村さん自身のためになりますし、おまけに今後、その発信力を活かしてその教訓を広めてもらうことも期待できます。ここまではよかったんです。

しかし、それが岡村さんのためではないとなると話は変わってきます。岡村さんのためではなく、社会へのインパクトが目的である、と。そうすると、社会の「啓蒙」活動の一つとして岡村さんに対する「教育」を行うべきだということになります。しかし、そんな「啓蒙」の必要を、社会はさほど感じていない(少なくとも「炎上」した岡村さんよりかは必要を感じていない)のが現状でしょう。さもなくば今回のようなことは起こっていません。すなわち、フェミニズムには他者が存在するということを無視してしまったのです。他者に背を向け「身内」に語りかけているだけでは他者にはたらきかけることはできません。「普遍的」であるかはアプリオリに定まるものではなく、実際に受容されるべきか否かに応じて定まります。その受容されるべきであるという理由を提示すること、それも一人ひとりの個人の責任でそれを行うことを忘れてはならないと思います。

[2020年8月13日追記]

直前の段落に関しまして、「社会の啓蒙と岡村さんの認識の修正との間で何が異なるのか」という疑問が生じるのは当然であると思います。これに対し、何らかの応答をしておかなければなりません。飛躍論証とされても文句は言えませんでした。

ここで隠された前提としては、第一に、個人を手段化して別の目的を達成しようとすることが許されないという前提があります。社会一般の、いわば「病理」の現れが岡村さんの発言であったとしても、「岡村さんの認識の改善」を謳っておきながら社会の啓蒙を秘密裏に行うことは、個人というものを軽視することにほかなりません。個人の責任としては、事実認識の改善と発言の撤回、そしてお詫びが落としどころであって、これに加えた別の活動としての社会全体の啓蒙活動は、責任外のことではないでしょうか。これらは、提案やお願いといった、岡村さんの合意・協力によるものであるべきです。それを、合意や協力を不要な形で、責任として追及することは、過酷であるばかりか、個人の手段化であり、個人の尊重という規範的主張に矛盾します。

第二に、岡村さんの認識の「改善」と書きましたが、発言に至る認識から、発言につき問題視するような認識への転換が、単なる「変更」ではなく、「改善」であるというために、事実と規範においてそれがより優れた認識への変更であることを示す必要があります。認識の転換が、たとえば、「これを言うと炎上するから言わないでおこう」といった、もっぱら社会的制裁を避けるためであって、事実上または価値判断上、発言内容が誤りであるからでないならば、個人にとって何ら改善にはなりません。「なぜ、このような発言が非難されるべきであるか、非難だけでなく認識をいかに改めるべきか」を説得的に論じなければ(一応本稿で私自身これを論じたつもりですが)、こうした制裁回避的な認識の偽装がなされるにとどまるでしょう。こうした面倒な手続を踏まず、トレンドに掲載されるなどの「数の論理」で認識変更を迫ることは、たとえ認識が変更されたとしても不当であるばかりか、認識の改善という本来の目的を達成できない蓋然性が高いといえます。

以上のような認識に基づき、私は原文のような主張を行っていましたことをご了解いただきたいと思います。

[以上追記]

7.その他の政治的発言について

「ツイフェミ」の方々ばかりを問題としてきましたが、その他、「保守主義者」や「リベラリスト」などについても、理由を示さずに言論を行うという場合には同様のことがいえます。他者に背を向け身内に語り続ける閉鎖的な言論空間においては、それ自体として「政治的」効力を期待できる言論、すなわち他者を変容させる可能性のある言論は存在しえません。そのためにムラ社会アタックや人格攻撃を多用することになっているのでしょう。

批判・検証(反証)に開かれていることは、他者と向き合うための必要条件です。他者と分かりあえるとは限りませんが、他者とルールを共有することはできるでしょう。もちろん、本稿で示したルールが唯一無二で正しいルールとは断言しませんが、このようなルールに基づいて政治的発言を行うことが他者との共生に必要なのではないでしょうか。

8.終わりに

以上のことをまとめると、「政治とは他者との共生であり、共生ためには主張は批判に開かれていなければならず、それゆえ主張の際には理由を語る必要がある」ということになります。それが理性的な社会における闘争であり、共存でもあるということです。

本稿のルールによって、議論の環境が整うことを祈っています。もちろん、文字通り「話にならない」人もいることだろうと思います。しかし、話をしてみなければ、話にならないか否かは知りえません。もしも「話にならない」としても、それがルールに基づいて行われたものであれば、第三者が各々で「より正しい(ルール適合的である)のはどちらの言論か」という判断が可能なはずです。もちろん、詭弁や誤謬を無自覚に使ってしまうこともあるでしょう。しかし、これらも、批判や反証があってはじめて話者が認識できるのですから、我々はここから始めていかなければなりません。

道徳的なお話になってしまいますが、他者の意見をよく聞き、理解すること、これが批判の前提条件です。そしてそのためには、各個人が互いにその意見をより分かりやすく、理由を示して表現することが必要といえます。

民主主義を少し買いかぶりつつ

省三

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