日常でイキル法的思考(リーガルマインド)とやら

徒然なるままに法学部で学んだなかで日常的な思考に影響を与えた考え方を、六法なんか関係なく書き連ねていこうと思います。ちょっと反道徳的に見えるかもしれませんが、私がしたいのはドートク等の規範を相対化することであって、「法ではないのだから従ってはいけない!」ということではありません。従ってもよいけれど、従わなければならないわけではないということです。

なお、あくまでも私は法学部を卒業したにすぎませんし、そもそも必ずしも一意的に定まるものでもありませんから、「リーガルマインド」論ではなく、「リーガルマインド」からの連想ゲームとでもお考えください。「リーガロパス」の戯れ言でもよいです。

ですから、本稿は法学徒向けのものではなく、むしろ「リーガルマインド」とやらをはじめて聞いた方、あるいは「その内容は空疎だろう」と考える方に向けてのナンチャッテ解説(法的でない考察を多分に含み、法学的知識もおぼろげ)になるのかな、と考えております。さて、では書いていきます。

①自由───「ノー」と言いなよ、サイレントマジョリティー

我々は、生まれながらにして自由な存在であるということを原則に据えています(日本国憲法は、国が諸々の自由を「保障」あるいは「侵害しない」と言っているのであって、憲法によって、あるいは国によって自由が「与えられる」わけではありません)。これらはフィクションなのですが、この虚構のおかげで我々は、基本的に(というのは、後述の場合や、他者の自由を侵害する場合は例外だからです)合意しない限り拘束や命令に服する必要がありません。すなわち、合意のない場合には強制することは原則としてできないということです(反対に合意したならば権利や義務が生じる。誰かに義務を履行することを求めることのできるのが権利で、それに応じる責任(後述)を負うのが義務です)。ただし、公権力は法・民主的手続により合意を擬制することができるため、個別具体的な合意がなくても強制力をはたらかせる場合があるのですが、これも極めて例外的な場合に限定されます。

だから、なぜか一人ひとりで内容を異にするジョーシキやドートクといった、法とは異なり合意を根拠としない社会的なルールについて、合意がない以上、その拘束力を認めることはできない(はず)です。また、経済合理的な判断、たとえば「あなたはこの店で買ってはいけない。あっちのほうが安いから」なんて言われても、「うるせえ、俺の勝手だろ」という話になりますよね。

ただし、合意をしない場合でも、ただ合意の言葉を口にせず、なりゆきを見守っておいて、あとから「でも俺合意してないし」などと責任逃れをすることは、周りが合意したように勘違いするに至る十分な根拠がある場合、許されません。

自由というのは、自分が何に縛られるのかを選択できることをも含意します。反対に、選択できない場合にはそれは自由であるとはいえません。だからこそ、義務は自由から導出されるもので、その処理としての責任も、自由がないかぎりは負うことができないのです。これが、自由と義務・責任との関係といえるでしょう。

しかし、自由が原則なのですから、合意などの正当化根拠がないかぎり、拘束や強制には断固として反対しましょう。「ノー」と言いなよ、サイレントマジョリティー。

②責任───「バカ」って言う奴がバカ

「罪を憎んで人を憎まず」なんて言葉がありますが、法学でも同じで、責任を追及するときに問題とするのは、特定の行為についてであって、その人の人格全般ではありません。

また、「責任」は義務とは異なり、行為規範(これからすべきこと、してはならないことの基準)ではなく、評価規範(既にやったことについての評価をするための基準)の文脈で語られることです。すなわち、ある行為(すべきでないのにしたこと、あるいはすべきだったのにしなかったこと)によって生じる不利益のうち、誰に、どれだけ引き受けてもらうかが責任についての考え方になります。

その不利益のうち、行為者本人により引き受けられるべきだと考えられる部分が、いわゆる「自己責任」です。自由に行為することは自己責任の基礎となるものですが、それが不利益のすべてを本人に引き受けさせることを直ちには意味しません。

たとえば、紛争地帯に行って人質にされた人がいたとしましょう。この場合、本人は黙って殺されるべきといえるでしょうか。もちろん、撃たれてしまったらその不利益を改めて誰かに転嫁して、自分は生き返る、なんてことはできませんが、法的な責任と事実的な責任とは異なります。事実生じた不利益を、分配し直すのが法的責任だからです。日本国憲法により国家は生存権を国民に保障しています。よって、生存させるために国家は何らかの行為をする義務があるはずですから、それを怠った場合、国家はその死について責任を負うことになるでしょう。

……少し話がずれてしまいましたが、要するに、責任とは、特定の行為につき、それにより生じた不利益のうち、事後的に再分配されたものだといえるでしょう。この「再分配」の理屈を考慮せずに、「責任をとれー」なんて言うことはありえません。

責任を問うとき、問われるときには、その追及の対象となるのは具体的にどの行為なのか、ここにはたらくはずの再分配のリクツは十分か、などを考えるようにしましょう。

だから、たとえば、何か失敗したときでも、「そこまで言われる筋合いはない」と思うことがありますよね。それはその再分配のリクツ(筋合い)がないということを意味しています。行為からはみ出して、「そもそもお前は……」という話をする人間には、責任が行為について問われるものであること、そして、その再分配のリクツが必要であることがわかっていないのです。こう言えるでしょう、「バカ」って言う奴がバカ。

③行為規範と評価規範───俺が法律だ!

規範やルール、と一口に言っても、その分類の方法は様々あります。そのなかでも代表的な分類法の一つが行為規範と評価規範、という分け方です。さきほど両者の区別は軽く説明しておきましたから、イキナリ具体例を考えてみましょう。

たとえば、仮想的に鼻唄が犯罪である社会を考えてみましょう。そうすると、法律にはどう書いてあるでしょうか。「鼻唄を歌ってはならない」「鼻唄を禁止する」と考えるならば、それは行為規範です。他方、「鼻唄を歌った者は、お尻ペンペンの刑に処す」「鼻唄を歌った者は、みんなで袋叩き」と考えるならば、それは評価規範です。

両者の違いは、規範の想定する主役にあります。行為規範は、事前的に(鼻唄を歌うことのできる)すべての人間に対して鼻唄を禁止しているのに対して、評価規範は、事後的に、実際鼻唄を歌った人に対し、どんな罰を与えるかを規定しています。

これらを区別することに意味はあるでしょうか。たしかに、評価規範だけあれば行為規範は必要がないように思われます。潜在的にすべての人を対象(ある規範などの対象となる人を名宛人といいます。クソリプには名宛人でない人が「自分は名宛人ではない!」と主張するケースがあります。私も「これ俺の悪口かな……?」と心当たりを探すときがよくあります)とする行為規範がなくても、評価規範の主役になる者に対し罰を与えることはできそうです。予防的な効果もありそうです。罰がみんな嫌がるものであり、かつ、鼻唄を歌えば罰があるのであれば、誰も鼻唄を歌いたがらないでしょう(少なくとも鼻唄を減らすことはできそうです)。実際、形式だけを見れば、日本における現行刑法も評価規範としてのみ規定されているように見えます。

刑法が行為規範と評価規範のいずれであるかという議論はもっと複雑ですが、行為規範としての機能を評価規範が果たしてしまうことがあるのも事実でしょう。名宛人が多少異なるとはいえ、ある行為すべき、あるいは、してはならない、という判断材料を評価規範は提供してくれます。すなわち、評価規範と行為規範とでは、明確に区別できないことがあるのも事実です。

しかし、行為規範と評価規範とが機能的に結び付きやすいからといって、すべての規範が行為規範及び評価規範の機能を有するものではありませんし、理論的には基準時(ある規範がとくにターゲットとする時点)が両者では異なり(「こうしてはならない」ということと「してしまったならこんな目に遭う」ということとは別です)、必ずしもセットとなっているものではありません。

たとえば、「裁判手続に重大な違法がある場合、裁判をやり直す」という評価規範があるとしましょう。それでは、行為規範は一体何でしょう。行為規範は、「裁判手続に重大な違法があるようにするな!」というものでしょうか。いや、そもそも「重大」でなくても「違法」そのものが「してはならない」ものでしょう。その「重大」さは、違反した行為規範そのものに依存する場合もありますが、ある行為規範の形式的な違反に加えて、その行為規範が守ろうとしているものがホントウに侵害されてしまったとを以て「重大」であると考えることもできます。

「信号を無視するな」という行為規範は、交通秩序維持、ひいては(逆説的に)移動の自由の保障のためにあると考えられますが、信号が赤でも誰も居なければ無視するという方は少なくないのではないでしょうか。それは、「信号を無視してはいけない」が、「実際に信号無視をしても、誰にもメイワクかからない(つまり、交通秩序はなお維持される)」というのであれば、無視しても構わないんじゃないか、と考えるからだと思います(もちろん、「バレないから」というのもあるでしょうが)。

ここに、行為規範と評価規範との分離を見ることができます。行為規範は、一般的な状況での合理的なふるまい方を規定するのに対し、評価規範は、一般的な状況だけでなく、特殊な状況におけるふるまいにつき改めて行為規範違反の(違反したか否かだけでなく、行為規範の目的にどの程度反したかという意味での)程度を考慮して罰の程度を検討させるものです。

このように、目的という事前判断と、結果という事後的評価とを調和させることが行為規範と評価規範との役割だといえるでしょう。

さて、クソ長い説明も済んだところで、日常生活において行為規範と評価規範という枠組みでものを見てみましょう。

ジョーシキやドートクと呼ばれる社会規範は、行為規範の長ーいリストにすぎません(が、私は一応これが「行為規範」として機能しているという事実は認識しています。ただし、そこに正当性があるとはかぎりません)。そこに評価規範の観点は欠如しているか、著しく不足しています。

「フキンシンだ!」と人を非難する人間は、「私はこれだけあなたに腹が立っているから人格攻撃をする」という評価規範(?感情に任せて根拠もなく人に罰を与えることのほうがドートク的にどうなんだと思いますが)のみに依っている場合もあります。そして感情というものは、そう思いたければほぼ無限に湧き出るものですから、おとしどころを見つけることができなくなり私刑にまで発展してしまいかねません。

このように、どれだけムカついたかではなくて、「何が、どのようなルールに反し、その結果何が損なわれるのか」という視点をもつことが、行為を(効率的に)批判するために必要です。人を殴るべきときには落ち着いて急所を狙うべきです(殴ってはいけません)。「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典は、評価規範があるだけ一億総我流マナー講師の社会(そんな社会があればですが)のものよりずっと先進的なのかもしれませんね。少なくとも次の姿勢は避けましょう。「俺が法律だ」

④原則と例外───オチはありません

ちょっと短めに。ここで扱うのは、事実の記述ではなく、規範としての原則と例外の記述です。原則があれば例外もあるのが原則かどうかは知りませんが、「例外」が存在するためには原則と、原則から外れる必要性と許容性がなければなりません。原則に従っていては不都合があり、その不都合が深刻で、それを回避することが原則通りにするよりも、よりメリットがある場合に限り例外というものを認めるべきなのです。

なお、「例外」というのは、当然原則通りではないことですから、例外を求める側が、その必要性、許容性をはっきり示す必要があります。

たとえば、前述の通り、人間は原則として自由であるとされますから、自由を制限するという例外的な措置は、それを行う側が必要性及び許容性を説明する責任があります。

このように、何が原則であるか、そしてその例外がなぜ認められるのかということを意識しなければ、「例外」が原則とは独立し、二元的に存在するような、原則に並立する選択肢でしかないという転倒が生じかねません。ただし、ここにオチはありません。

⑤問題と課題───だからなに?

少し政策学的なお話ですが、問題と課題の関係を説明いたします。問題は、ある事実につき、それが不都合であるだとかの悪影響をもたらすと認識されたものを言います。これに対し、課題は、問題のなかで、とくに解決すべきとされるものを言います。すなわち、問題群を一定のフィルターに掛けて抽出されるものが課題だと言えましょう。

この「フィルター」は、問題の危険性や経済的損失のリスク、損失の社会的重要性などにより構成されるわけですが、法学的には、人権の侵害や法令違反の有無がフィルターの役割を果たします。もちろん、個々人にとって、フィルターは多かれ少なかれ差違のあるものだとは思いますが、ある問題について議論をするとき、それが課題であるというための言語は、議論する人間同士で共通していなければなりません。特に、「社会問題である」として論じるには、以上に述べたようなフィルターによるテストをパスしておく必要があり、そのフィルターを明示することが、議論の前提を共有することにほかなりません。そのフィルターが共通認識にないかぎり、議論は平行線をたどることになります。

たとえば、ある患者がお医者さんに行って「もう何日も食べていなくてふらつくんです。これは政治が悪いからですよね!センセイは今の政治をどうお考えですか?」などと言っても、お医者さんはあなたに点滴をうつだけでその質問には答えないでしょう(もしかすると別の科に回されるだけかもしれませんが)。それでも、とりあえず身体には栄養が供給され、ふらつきは解消されるわけですが、政治フィルターを使っている患者と、医学フィルターを使っているお医者さんとでは「議論」が成り立ちません。

したがって、ある言説が多くの他者に影響を与えるためには、できるだけ一般的なフィルターを使うことが必要なわけです。感情論であったり、誰かの考えるジョーシキであったりは、それだけでは他者にコミットしにくいわけです。ある問題を課題として認識させるには、「だからなに?」に対して応答できるフィルターとその明示が必要なわけです。それができなければ、擬似問題(擬似課題?)となり、議論の俎上にあげることはできないわけです。

コミュニケーション一般であっても、それが一体課題というべきフィルターのテストをパスしているかどうかを考えることが、無用な争いをなくすものであると思います。だから、もしも独善的な「課題」を突きつけられたなら、こう言ってやりましょう。「だからなに?」

⑥否認と抗弁───言い訳って良いわけ?

Twitterでよく見る、「クソリプ」と呼ばれるリプライの一種に、書いてないことを読み取って激怒しているという特徴のあるものがあります。

この「書いてないこと」と「書いてること」の区別は簡単ではありませんが、論理学的な誤謬として、前件否定・後件肯定というものがあります。論理学の本なんかではよく取り上げられる例なので軽く紹介するにとどめます。「PならばQである」という命題Aにつき、前者は「PでないならばQでない」(命題Aの裏)だと考えて「PではないがQである」ものがある!よって命題Aは偽!とするもの、後者は「QであるならばPである」(命題Aの逆)と考え、「QであるがPでない」ものがある!よって命題Aは偽!とするものといえます(たとえばPにチーズバーガー、Qに食べ物を代入してみると滑稽さがよくわかります)。命題の裏及び逆が偽であっても、元の命題の真偽は定まりません(必要十分条件・同値である場合は除く)。

さて、こんな命題の授業をしたいわけではありません。ここで考えていただきたいのは、ある事実が別の事実と両立するか?という視点についてです。さきほどの例だと、チーズバーガーが食べ物であることと、チーズバーガー以外にも食べ物があることは両立します。

このように、ある事実と両立する別の事実と、両立しない(矛盾する)別の事実とがあります。法学では、相手の主張する事実に矛盾する事実を述べることを否認、両立する事実を述べて相手の主張する事実の意味を打ち消すことを抗弁と言います。

たとえば、あなたが浮気を疑われているとしましょう。ある日、あなたを疑うパートナーと次のような会話をすることになりました。

「浮気したでしょ?」

「どうしてそう思うの」

「この前、あなたがラブホテルに私の知らない人と一緒に入ったのを見たよ」(これを主張する事実としましょう)

……さて、どうしましょうか。否認?それとも抗弁?

「え?そんなことなかったけど?見間違いでしょ?」(否認から入りましたね)

「写真撮ってるよ、これ、あなたが持ってる限定版のパーカーだよね。入って行ってるじゃん」(これは決定的だぁー!)

GAME OVER ?

やってしまいましたかね。いやいやそうでもない。次に抗弁をしてみましょう。

「いや実はそうなんだ」

「じゃあ浮気だね」

「それは違うんだ」

「は?」

「たしかに一緒に僕は相手とホテルに一緒に入った。でも、それはアルバイトで受付をやってるからで、相手はそのバイト仲間なんだ。その写真、俺の出勤姿を写してんの。だから浮気じゃねえ」(否認のあとにこれは挽回が難しいですが、なんとか抗弁のカタチに持ち込んだぁー!なんという口数、なんという目の泳ぎ方でしょうか!ラブホテルの受付が二人なんて聞いたことない!!!)

おお!「ホテルに入った」という事実と両立しつつ、かつ「浮気した」を否定できる別の事実を主張できました!やったね!……まあ、この先の展開は想像にお任せしますが。

このように、ある事実に関して、否認と抗弁という、二つの言い訳の仕方があることがわかりました。事実の間の関係を両立/矛盾という捉え方をすることで、これがホントウに争いなのか?という視点が生まれたり、あるいは解決することができる場合があります。

なお、日常における抗弁というのは、具体的な法的効果と結び付く事実の主張に対してではなく、ある事実から相手が「だからこう」と言いたがっていることに対する攻撃ですから、抗弁をする際には、そのようなメタメッセージを読み取る必要があります。

しかし、事実の評価としての「だからこう」については、解釈の問題であって、読み取った「だからこう」の内容が一意的に定まらない恣意性があります。それゆえ、クソリプとされるもののなかには、このメタメッセージ(と解した別の主張)に対する抗弁をしているつもりで、誤読している場合もあります。

たとえば、「チーズバーガーの売り上げには、日本よりもアメリカのほうが寄与している」という事実だけ述べている文につき、「だったらなんだ?日本でもチーズバーガー食えっつうのか?」との解釈によって怒っていては話になりません。日常的抗弁は、「だからこう」が定まっている、あるいは確認できる場合になすのがよろしいでしょう。

まあ、悪いことをしたと自覚があるなら、下手に言い訳するべきではないと思いますが。言い訳って良いわけ?

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