脳トレポジショントーク

本稿は、頭の体操としてポジショントークをやってみよう、という誘いです。うまく建前を考える能力を養いましょう!

1.ポジショントークとは

一般にポジショントークとは、自らの立場を維持または向上させることを目的に行う言論を指すと思われますが、本稿では、ある結論を支持することを措定し、その見解を正当化しようとする試みを指すものと考えてください。

この定義の差違をもう少し説明しますと、前者の、一般的な定義では、自己という確立した立場を前提に据えて理論構築を行うのに対し、後者、本稿における定義では、数ある結論のうち、"たとえば"ある結論を支持するとしたときにいかなる理論構築が可能かを追究することといえます。すなわち、「自己」の利害得失から離れ、相対化したうえで、あるひとつの結論を支持するとしたときの頭の体操をしようとするのが本稿の目的です。ディベートでは、個人的な意見がどうであろうが振り分けられた結論を支持することが求められますが、この「振り分け」という操作を自ら行うことを前提とします。

つまり、本稿のいうポジショントークは、「俺損やん!」だけでは反論にはなりえず、もっと他の理由がなければ十分な理由とみなされない(たとえば、その「損」が不当な分配であるなどを論証すれば理由にはなりそうです)空間を脳内に立ち上げて行うものです。これは、「相手の立場になって考えよう(ほっこり)」ということではなく、「仮にこういう立場であったとしたら、どんな理由をつけて結論を正当化するのが妥当か」という問いへの挑戦です。別に無知のベールを被る必要はありません。

2.本音と建前

難しく聞こえるかもしれませんが、日本にはこれをわかりやすく説明する素敵なコトバがあります。何か。それは、「本音と建前」というコトバです。

たとえば、飲み会に誘われたけどいきたくないときってありますよね。そのとき、本音は「えー、この先輩ケチやからなぁ、奢ってもらえへんし行くだけ無駄やん」であるとしても、建前として「嬉しいお誘いありがとうございます!是非行きたいのですが、実はこのあと急いで実家帰らないといけなくて……ホントに今度また誘ってくださいね!絶対予定空けときますんで!」などと虚偽の陳述をしますよね。他方、「行けるけど行きません」「すみませんこれからお腹痛くなる予定なんで」「はいはい、おもしろいおもしろい」などと答えることもできますが、これらは普通、受け入れられないということはご存じでしょう(「嫌だから」はもっと尊重されるべきだと思いますが)。

このように、我々は日頃、本音と建前をうまーく使い分けているわけですが、そこにあるのは「どんな理由なら文句言われないだろうか」という悩みです。これです!この「文句を言わせない理由」(=正当化)を結論ごとに一々論理的に考えてみる、というのが本稿のいうポジショントークの真髄なのです!これができれば、いわゆる「反転可能性」の要求をガン無視するような本来の一般的ポジショントークとは正反対の、理想的な意見形成に成功するわけです。

なお、「本音と建前」という表現からもわかるように、建前としての正当化根拠は、自分自身がそうであると信じていなくてもよいものです。すなわち、自分は納得していないリクツであっても、他者を説得できればよいという倫理的には問題のありそうなこともここでは許されます(ただし、説得してる過程で自分も納得する可能性はあります)。自己の理解や納得から離れて、他者をその問題につき説得することを目標とするのですから、自分自身のことはあまり関係がないのです。自己の納得の仕方は、多分にそれまでの固有の経験に左右されるため、その影響を無視して論展開しても説得できるとは限らず、その個別的な納得を普遍化するために工夫しよう、ということです。

3.納得と説得

ここで、一つ疑問が生じることでしょう。「自分が納得した理路を相手に伝えることが説得ではないのか」と。これについては、答えはノーです。説得とは、相手が納得することのみを以て完遂されるものであって、その方法について、自分の辿ったプロセスのみを固定的な唯一解とする必要はありません。よって、結論に至るまでの実際のプロセスと、それを説明するプロセスとは区別すべきなのです。

たとえば、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したのではなく、万有引力を発見したのち、説明(説得)にリンゴを用いたにすぎないと考えるべきでしょう。また、実際、私がnoteを作成するとき、主張につき具体例を挙げて説明することが多いのですが、その具体例からは主張を形成していないこともあります。もちろん、説得には抽象的な理屈が必要だと思いますが、ここでは発見そのものとは区別される説明の文脈があることを理解していただければなぁと思います。

にもかかわらず、読書等に際しては、「論理構造がどうたらこうたら」など、思考を辿るよう他のnoteで説いています。説得の方法から区別される納得の方法を、説得の方法から学ぼうということを言っているわけです。嘘を吐いていたのでしょうか。違います。では、これについて弁明しますと、次の三点が挙げられるでしょうか。

第一に、この両者の方法の区別は相対的であること。言い換えれば、自らを説得することが納得になる以上、客体の差にすぎない(が、直観も手伝う個人的な納得とは異なり、説得の客体たる他者は、論理のみで、いわゆる普遍性のある議論を通じてしか説得できないものであると仮定しています)ということ。第二に、発見・納得のプロセスについては自分でもよくわかっていないこともあるなか、自ら、ある説得の方法を他の対象に適用することによって実際に納得に至るケースは確実にあったという経験則があること。第三に、発見・納得の方法は千差万別であるのに対し、説得の方法については一定のルール(三段論法や背理法などの論理学や修辞学の対象領域で、普遍的な説得力があり、その論法によって「(感情や利害はさておき)納得せざるをえない」ものといえましょう)があり記述に向いていること(これは私の怠慢だともいえるでしょうが、「閃き」や「思いつき」についてはこれを説明する力量がありませんし、みなさんに「納得」してもらえるような説得が期待できないために割愛せざるをえませんでした)。

要するに、発見・納得の一つの方法として説得の方法があるということから、説得の方法にスポットを当てていたといえるでしょう。たとえば、類推は説得の方法にも用いられますが、同時に、直観的な発見・納得の方法でもありえます。(なお、認知科学的には、拡散的思考と収束的思考という二つの動きがセットになって創造的思考をなすということらしいです。私は、この収束的思考のほうを主に扱っているともいえそうです。気になる方は大黒達也『芸術的創造は脳のどこから産まれるか?』光文社、2020をご覧ください。一般の方でもわかりやすく、かつ参考文献を明示しているためその後の独学にも役に立つ素晴らしい本でした。)

4.ポジショントークの方法

「ポジショントーク」が何を指すかがわかったところで、次はその方法を検討します。

ポジショントークには、立証・立論と、反証・反論という二つの種類があります。前者は、論理構造を構築し結論を正当化することを志向し、後者は立論の論理構造につき批判することを志向します。前者は論理構造を(他の論理構造をパクるにしても)一から構築するのに対し、後者はいわゆる「対案」なんか出さなくてもよい(出してもよいですが)という非対称性があります(「証明責任の分配」に近い考え方で、その主張により得する側や例外を主張する側は、主張を裏付けないと説得できないものと考え、反論については、その裏付けを妨害するだけで十分といえるのです)。

たとえば、「ソクラテスは死ぬ」という結論を支持したい場合、大前提「人は死ぬ」があり、小前提に「ソクラテスは人である」があるため、よって「ソクラテスは死ぬ」という論理構造を採用できるでしょう(もちろん、「ソクラテスは俺が殺したし確かに死んだのでソクラテスには死ぬという性質がある」のような、経験に基づく論理構造を採用することもできます)。これに対し反論側がすべきことは「ソクラテスは死なない」ことを証明することではなく、「ソクラテスは死ぬ」という証明を妨害することです。具体的には、大前提の「人は死ぬ」に対して「現に生きてる人が居るんだからみんながそうとは限らんだろ、なぜ全員が死ぬといえるのか」と言ってみたり、小前提の「ソクラテスは人である」に対しては「ソクラテスはうちの冷蔵庫の名前であって人ではないぞ」「ソクラテスはプラトンが書いたお話の登場人物だがこの場合は人であるといえるのか」と言ってみたりすることで証明の妨害ができます(ちょっと無理があるかもしれませんが、反論の形としてありえますし、こういった反論を考えるのは頭の体操になります)。

ところで、立論的なポジショントークの難しさは、このような証明責任の分配にのみ由来するのではなく、手持ちのオプションのうち、いずれの武器(理路)を用いて戦うかを決定しなければならないということにもあります。単なる事実の存否ならまだしも、一定の操作を必要とする推論を行うにあたり、どの論法を使うかによって相手の反撃も異なってきます。

たとえば、費用対効果を用いて主張を根拠付けようとすると、「そこまでのパフォーマンスを求めていないのだからコストをかける必要がないのではないのか」「こうしたほうがより効率的であるのにわざわざそうするのはなぜか」などの、いわばコストパフォーマンスについての内在的な反論が予想できます。また、「予算がねえだろ」「労働基準法違反やん」など外在的な反論もありえます。

なお、内在/外在の区別について説明いたしますと、内在的なものは、あるリクツそれ自体が成立するかどうか、そのリクツが正しいとして、別の結論に至りうる場合に、支持する結論がなぜ他に優越するといえるのかなど、特定の結論を正当化するある一つの論拠が正常に機能しているか否かという視点に立つものです。これに対し、外在的なものは、あるリクツそれ自体ではなく、別のリクツや事実を以て論理構造に影響を及ぼすものです。

主張の際には、複数のリクツを用いて正当化をはかると思いますから、内在/外在の区別は相対的なものとなります。しかし、ある一つのリクツを点検・検証する際には有意義な視点となると思われます。

主張にあたり、より注意を払わなければならないのは内在的な反論の可能性です。まず、リクツそのものが成立し、そしてそれが結論に結び付かなければ「主張」としての成立が危ぶまれます。説得を組み立てる順番の問題でもありますが、まずは内在的な反論に堪えうるか否かを常に検証する必要があります。それは、論理構造、その射程、規範的な正しさのチェックであり、これが疎かな場合、外在的な反論が皆無であっても説得の期待はできないでしょう。

たとえば「スマホは高機能のものを使うべきだ。だから私はXperia」という言明には、「Xperiaは高機能である」という前提が隠れています。この前提について正しいといえなければ、この主張は根拠を失ってしまいます。また、より高機能のものがあるとすると、「なぜ機能面で劣るXperiaを選ぶのか」という(内在的な)反論が予想できます。この反論に対しては、Xperiaが機能面で最も優れているか否かを予め確認しておけば反駁できます。もしもXperiaが最も優れているならば、その旨を論証しておく。他方、Xperiaが機能面で劣る場合には、なぜ機能面で劣るにもかかわらずXperiaを使うべきといえるのかを論証する必要があります。そこで考慮すべきなのが外在的な事情、たとえば予算などで、「予算的に選択肢に入るうち最も優れた機能をもつのがXperiaだから」「たしかに機能面で最高のものは別に一つあるけど、それを買うのはコスパが悪いぞ」などと説明することになるでしょう。ちなみに私はXperiaではありません。

このように、立論側は、ある理路をメインとして採用するに際して、その理路につき内在的なチェックを行い、場合によって外在的な補強をしておく必要があります。すなわち、内在的な論理によって「不足」を見つけ出し、その「不足」を補う要素を外在的なものに求める、ということになると思います。

これに対し、反論側は、立論側のチェックの失敗またはそのチェック漏れを指摘することが求められます。立論側のチェックから漏れた外在的なリクツや、チェック漏れがなくともある観点を立論側よりもより重視する価値判断を持ち出して「この観点からは立論側と異なる結論ができる。そしてこの観点は立論側の用いた観点よりもここでは(たとえば民主主義社会では、など)重要である」ということを論証すれば、簡単に「対案」と呼べるものを作ることができます。

このように、立論側と反論側、いずれの立場に立つかによって、するべきことが変わってきます。振り分けかたは、自発的に、ある結論に至りたい!というのであれば立論側で、ある結論に至るべきでない!というのが反論側です。

しかし、ここでより重要なのは、意見形成をする際に、自分で賛否の両論を考慮することです。自分で構築する論理構造を、自分のなかで反論・反証しようとしてみる。その際、結論を支持するリクツを立論側として捉え、その内在的な論理から反論を予想し、それに堪えるよう補強・修正する。次に外在的な事情を考慮し、現実に適合する論理であるかを確認する。こうすることで、説得に普遍性を期待できるようになります。

[コラム]論理の射程

「力による押し付けだからダメだ!」と社会規範に異を唱える方がいらっしゃいます。その当否は別として、「力による押し付け」という評価は、刑法にも当てはまります。もちろん、民主主義によって合意が擬制されている法と、手続を踏まない類いの社会規範とでは、その正統性に差はあるでしょう。しかし、それでもなお、死刑執行を心から嫌がる死刑囚に、無情にも国家は死刑を執行しているわけです。もちろん、刑法も悪であるとの結論に賛成するならば「力による押し付けだからダメ」といえるでしょう。しかし、刑法や「押し付け」疑惑のある日本国憲法について、直ちに放棄すべき、とする方は少ないのではないかと思われます。いわゆる法と強盗の違いを如何にして認めうるのか、また、悪法は法か、という伝統的な法哲学における議論に接近しますが、冒頭の主張はこれらの難題を解消しない限り論証に成功することは期待できません。したがって、元のリクツを維持したいのであれば、適用対象を制限的にしたり、対象間の区別が可能であることを示しておく必要があるわけです。

それよりも、元の主張に修正を加え、「不当な社会規範につき、その存在または適用によって個人に不利益を生じることは許されない」くらいに論理構造を変更し(ちょっとトートロジーっぽいですが)、「ある社会規範が不当であること(これは「力による押し付け」であるというだけでは足りず、その内容や手続を吟味して行う必要があります)」「不当な社会規範による個人の不利益が存在すること」を示せば説得しやすいものと思われます。

すなわち、あるリクツに乗っかる、別の対象についての結論が不当である場合、適用が間違っているのでなければ、もとのリクツが間違っているということになります。よって、リクツに従うと対象によっては不都合な結論を導くような立論をする際には、リクツそれ自体を修正するか、あるいは、適用対象の区別をできるだけ明確にしておく必要があります。

[コラム]終わり

5.背理法

とはいえ、「どんな結論に立とうが説得に至るリクツをつけられる!」と言いたいわけではありません。人間は万物の尺度かもしれませんが、反論に堪えられないリクツしかなければ立論は説得力をもちません。このように、結論ありきで考えても理由が不十分になってしまう場合は存在するのです。

そんな、うまくいかないときには、どうせポジショントークなのですから、「この立場、やーんぴ!」と言って結論を投げ出しましょう。ある種、背理法的に(そもそもこれが裏の目的ですし)、真理に近づくことに成功しているのですから、恥じることなんて一つもありません。むしろ、理由もないと判明してから、その後も結論にしがみつくことこそが恥ずかしいのです。

ただし、理由が不十分であるとき、手持ちの理由となる論理構造では対応できないだけで、ある別の論理構造ならば正当化できる、という場合もありうるのでできるだけ「開かれた」態度をとっておきましょう。このような論理構造のじり貧を避けるためには、やはり読書等が重要なのだなの思います。

6.建前の重要性

私が言いたいのは、結論ありきで考えてもリクツが十分でない結論が存在しうること、そのような結論は支持できないし、すべきでもないということです。

また、これは、他者の主張に接する際にも同様です。仮に外観として「アイツはあの結論を支持することで利益が出るから支持してるんだ!」と思われる場合であっても、相手の呈示した別の理由があれば反論は別でしなければならず、相手の論理構造そのものに反論できなければ斥けることはできないはずです。つまり、本音が透けて見えたとしても建前のほうに目を向けなければなりません。

インターネットでは「議論」と称して相手の人格や経歴・属性について「~だからその結論を支持してるだけだろ」などと攻撃して理由について言及しないのはこの反面教師といえるでしょう。また、正当化理由となる概念や判断枠組みを明示せず結論めいたもののみを主張して「反論まだ?」とか言ってるのも話になりませんし、「反論してきた時点で……という属性があるから無駄」みたいな論法もカスです(twitterの場合は文字数制限やカルチャーも多少影響あるでしょうけど)。

7.自己相対化

ある結論を措定し、正当化を試みる。これが本稿でのポジショントークでしたが、前述の通り、ポジショントークの際には「この正当化は十分か?」という問いと向き合う必要があります。よって、本稿のポジショントークは、我々自身の思考の粗を見つけ出す作業であり、ときには心から信じていた結論を否定することをも迫るものです。

「結論ありき」というのはしばしば、非難の文脈、呪われた言葉のような響きを持ちますが、それが悪いのは理由が不十分であるにもかかわらず、ある結論を支持するからであって、結論を措定した議論すべてが悪いわけではありません。つまり、悪性の本質は、理由不足にあるのです。

もちろん、日常生活では議論や立論とは異なり、このような理由を追求する必要はありません。しかし、たとえば誰かの行動にムカッとしたときなんかは、その行動に至る理由についてポジショントークしてみる。

極端で現実味に欠ける例かもしれませんが、人二人が横に並んで通れるだけの幅の一本道を想像しましょう。そこで、向かってくる男が一人います。私は彼をよけ、通り抜けようとしましたが、その人は付いてくるように私の前に立ちふさがります。私は「こいつは俺の邪魔をしている!悪い奴!」とキレそうです。殴ってやろうかな。しかし、しかしですよ、もしかすると(というか十中八九)彼も私を避けようとしているのかもしれません。いや実際、そう動いているのです。

そのような、声なき言い分に思いを馳せることで苛立ちも緩和されることでしょう。ポジショントークでも正当化できないような行動も存在し、いやむしろありふれてはいますが、少し自分の立場を相対化し、脇に置いてみる。そうすることで、例の道では二人がキレイにすれ違うことができるはずです。ちなみに、よけようとしている(という建前を機能させたい)のであれば、自分が進む方向を手で示せば、反対側によけてくれるはずですから私はいつもこうしています。

8.おわりに

はい、いつものクソ長余談コーナーです。実は7.自己相対化のところを「おわりに」のつもりで書いていたのですが、おもしろみがないのでオチとしては却下しました。じゃあオチは何か、というと、さっきの道の男についての怖い話です。

さっきの男について、「十中八九」私をよけて進もうとしているということを書きましたが、実は最初の想定通り「邪魔」するのが目的なのかもしれません。邪魔したいという本音があるにもかかわらず、こちらが勝手に避けようとしてくれているという建前を捏造して解釈しているだけというおそれもあります。私も彼とは話をするような間柄ではないですし、確認はできませんが、意図がどうであろうと、確認したところで彼は「よけようと思って」と答えることができます。

このように、後付けを許してしまうのが建前のやっかいなところなわけですが、我々はこのような「後付け」しか相手にできないのです。他にも、「行かせないぞ!」なんて言ってくれてたら邪魔をしようという意図があるほうに信憑性がありますね。しかしそれでも、「あの先は崖だから」とかいうぶっとび後付け設定がありえますし、本音と合致しているか否かは建前の有効性を直ちに決定づけるものではないのです。また、反対に、本音はよけようとしていても、解釈としては邪魔しようとしている、と考えることもできるわけです。もちろん、何らかの建前を無効化する証拠のようなものがある場合もあります(崖なんてなかったとか)が、これを割り出すには議論や調査等が必要です。

ポジショントークは、結論を導く建前は何であるべきかを定め、その建前についての議論や調査も自分でやることで最も整合性のある建前を構築し、表現しようとする営みです。何らかの言論(誰かの建前)に対抗すべくポジショントークをするときには、反論側としてチェック漏れ等を探すということになりますが、どちらにせよ、徹底的に建前だけを対象とする点に特徴があります。

それは本音というものの不可知性(又は知ることの困難)にも由来するわけですが、建前で正当化できる限りはある結論が正当であるとみなしてよいというのが主要な理由です。ある結論についての建前の正当性が不十分であるならば、より説得的な結論に取って代わられるのがポジショントークの前提で、「暫定1位」はそれなりに正当化されたものであるはずです。

もちろん、「結論ありき」という点で一定のバイアス(有利な価値の過大評価など)はありえますが、ポジショントークは説得の技法ですから、納得はしてもそれだけでは不十分で、他者(これは仮想敵かもしれないし、実際の議論の相手や聴衆かもしれません)を説得することを常に考えておく必要があります。反証側については「妨害」で十分であるというのも「結論ありき」による推論における弊害を防止する機能があると思われます。そのバイアスは立論側の推論における価値の過大評価や不利な事実の無視という形で現れてきますから、反論側としてふるまうときにはこれらに注意するようにしましょう。

法哲学的なお話を日常的なお話に焼き直した感のあるnoteでしたが、お読みいただきありがとうございました。

法哲学と本稿との対応が気になる方は、高橋文彦「法の支配と法的思考」井上達夫編『現代法哲学講義』[第二版](信山社、2018)をご覧ください。本稿では法的三段論法と裁判官の恣意性を主題とすることはありませんでしたが、論理は立論者の恣意を制限しうるか、という問いについては「建前によって正当化ができない場合があり、その場合は結論を放棄すべきだし、反対に、建前で十分に正当化できたならば一応それは正しいと考えざるをえない」と一般論(建前?笑)として答えたつもりです。もちろん、大前提たる法的ルールまたは事実認定における不確定性についてのバイアスが存在しえますが、その超克がいかにして図られているかについても触れました。

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省三

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