深掘り?何をどうすると深掘りですか。
問と知識は大事。しかし何より実践だ。
「わからなかったら、検索すればいいじゃないか。」漏れている心の声が幻聴する。「頭悪いんだから、自分で考えようとするんじゃありません。」
そうですね。そうですね。そうですね。
確かにそうですね。
世は、「こぴー安堵ペースト」(←頭悪い感じの表記に見えますね。一発変換で出たのは、コレです。なんか、PCが一発で変換してきた表記に安心感を少しく抱いてしまったので、そのまま残したくなりました。)の時代です。検索して、コピーしてペーストするのです。現実でも、検索してコピーしてペーストするのです。それが知識基盤型社会の一側面です。今も昔も、模倣から入るのが学びではあります。
昔は、知識の伝達がアナログでありました。口頭で伝承であったり、紙で伝達であったり、録音録画したり。そして、知識はなかなか広まりませんでした。菅原孝標の女は、『源氏物語』を読みたくって仕方がなかったけれど、田舎にいるときには手に入らなかった。都会に出て『源氏物語』を丸っと読んで幸せだったけど、夫婦生活は夢のようではなかったのです。仏道アンビバレンスな気持ちでつづっているけれど、日記は『源氏物語』万歳色が強いんですよ。そんな仏道に入りたいと希う熟女をも魅了し、成立後千年ちょいたっても、まだもてはやされる超大作ですら、当時、田舎では手に入らなかったのですよ。今では、インターネットの窓を開けば、すぐそこに手の届いてしまう『源氏物語』ですが。
てんで生活ダメ人間として、足掛け数十年ですが、知識はあるのです。どうしたらよいのかという、知識は。てんでダメ人間ですが、検索くらいは人並みにできるし、幸運なことに相方さんは生活できる人間だったのです。知識は探れるし、体現者は身近にいるので、見て学ぶことも容易です。
しかし、知識は運用して習慣化して道に乗せてこそナンボなんだということを身にしみて感じている次第です。
だから、小さい頃の教育が大事といわれるのかもしれませんね。「三つ子の魂百まで」なんて言葉もありましたね。しかし、この「三つ子の魂百まで」という言葉が、どれくらい前から存在したのかということについてまでは知らないのです。
問うことによって得た知識は、やはりステータスではあると思います。しかし、体現することによってしか成長したとはみなせないなって思う今日この頃です。
成長するための某かにに使わせていただきます。