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運転中の居眠りは危険だが、助手席の居眠りも危険である。

人間関係的な危険というか危機である。
送迎をお願いして、助手席で眠るという危険を冒しました。
冒険ではない、危険である。なぜなら、望んで始めていないし、ワクワクドキドキもない。あるのは相方さんによる軽蔑の視線のみである。イタイ。

年末年始は特に予定も立てなかった。いつも立てていない。その場の勢いで行動している感がある。まぁ、いつもだいたい同じだ。

年初めの二三日前に思い立って、初詣に行ってみたりするのだ。神道や仏教を信奉していないので、私も相方さんも初詣自体にあまり意義を見出してはいない。年始の初もうでは完全に日本的文化行事への参加がメインである。

そして、今年も行こうかなどと考えていたらコレである。

私はやらかす。たまにヤラカス。大事な時こそヤラカス。

我が家のイベントは、いつだって私の企画立案だが、そこへ相方さんが参加するか否かは、私の生活態度にかかっていたりする。
相方さんは、今までの積みに積み上げられた経験から、「会話が成り立たなかったり、生活を安定させる意思が見られないなど嫌な思いをするくらいなら一緒に行動しなくてもいい。家で寝ます。」というスタンスになっており、今回も発動した。

嗚呼。嗚呼。

さて。

電車に乗りたい。
お正月イベントっぽいことしたい。
温泉に行きたい。
正月のあいさつ回りしたい。
人がドパドパ溢れるところに行って、何をするでもなくフラフラしたい。


完全な余談だが。
私の母親は結構信じる方で、家の神棚の水や榊が切れたことはない。
さらに祖母たちになると、御仏壇と神棚と両方が存在し、それぞれにお供え物をしている。どこぞの親せきや知り合いがお土産を手にしてきた日には、必ずお仏壇の前に飾られた。というか供えられた。お線香をあげて、チーンとやって手を合わすのだ。「良いものをいただきましたよ。」と。「ご先祖様が行いが良かったからでしょうか」などと問いかけているかどうかは不明だが、南無阿弥陀仏の声が微かに聞こえたりもした。
場所の問題かどうかは分からないが、御みやげ物が神棚に飾られることはなかった。そして食すのはたいてい頂いた日の晩か、翌日だった。祖父や父の在不在に左右されていたのかもしれない。だからと言っては語弊があるかもしれないが、私には、西洋風の頂き物はいただいた時に一緒に食べるという習慣があまりなかった。
友人知人からお土産を頂いたときの、「わぁ!なんだろう!すごく楽しみ!開けてみてもいい!?」的なノリは、クリスマスとか誕生日パーティとかいうときに培われたものなのではないだろうか。
だから少し、今でも友人がお土産を持ってきてくれた時に一瞬の気おくれがある。


成長するための某かにに使わせていただきます。