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鏡、鏡、鏡はどこだ。

体を起こせばピキピキと音を鳴らし、腰のあたりと首のあたりに鈍い重みを感じる身体。思わずうめき声をあげる。パンと張った脹脛を起こして体操座り。膝に頭を預けてしばしぼぉっとする。快適な朝の目覚めとは縁遠い。
引きずるようにして起き上がり、回らない頭で目覚まし代わりのスマートフォンを手にする。スマートフォンに導かれるままニュースや小説の更新を読み漁る。スマートフォンを片手にリビングに降りていき朝食の準備をする。前夜の片付かないままの汚い部屋。汚れた台所。たまった洗濯物。選択が終わってから洗う予定の汚いお風呂場。子供たちに催促されて作るご飯。なすべきことが山ほどある。
「ご飯まだ。」「お腹空いた。」催促が相次ぎ重なると出てくるイライラ。「靴下がない。」「ハンカチはどこ。」
それくらい自分ですればいいのに。家事は誰がしたっていいでしょ。自分だってご飯食べるんだし、ごみを出しているでしょう。なぜ、ご飯作るのも掃除するのも、人がするのが当たり前なの。小さなイライラが積み重なり、爆発して「うるさーい!ちょっと待ちなさい!」と癇癪を起こす寸前。
ふと目に入った鏡。映るのは、疲れた顔を鬼の形相に変えてしまっている私。はっと思い出された、あるスピーチコンテスト優勝者の動画。「あなたはかっこいい」鏡に向かって自分に伝えるのだ。思わず私は自分に問いかけた。「あなたはかっこいいか?」「その振る舞いは自分の望むところのものか?」
このイライラに正当性はあるだろうか。今、このイライラを稚い子供たちにぶつけようとしていた。そのことに正当性はあるだろうか。イライラは仕方ないとして、それを子供にぶつけるのは不当だ。
そして改めて、語りかける。「あなたはかっこいい。あなたは優しい。」
ママー靴下なーい。には、笑顔で「はいはーい。今行くよー。」着いたら「おはよう。」とあいさつして抱きしめる。目線を合わせて「どうしたの」と聞く。「靴下がない」と言われたら一緒に探す。「ご飯まだー」と言われたら、笑顔に困り顔を足して、「ごめんねーあと少しでできるよ」と言ってぎゅっと抱きしめる。「もう少し待ってね」と言ってよしよしと頭をなでる。「ハンカチがなーい」と言われたら、笑顔で「はいはい。今行きますよ」と言って、「どうしたの?」と聞く。「ハンカチがない」と言われたら、「困ったねー。じゃあ、一緒に探そうか」と言って笑顔で一緒に探す。
鏡をのぞいて問いかける。今の自分は、自分の望むところの自分かどうか。あなたも試しにしてみてください。ほんのちょっとかもしれないけれど、きっと理想の自分に近づけるはず。

成長するための某かにに使わせていただきます。