『ありがとうBOX』命名byちびっ子姉
ありがとうを言葉にする活動、始めました。仮想通貨をエサにして、ちびっ子たちを釣りました。ちびっ子が釣れるなら、いいかということにしてます。(仮想通貨は、家庭内でのみ使える通貨で、お菓子と交換出来たりスマホを時間で使うことができたり、ママを朝起こすクエストなどで増やしたりできます。ベーシックインカム制で、基本毎日増えます。)目的は、「ありがとう」を言うこと。「ありがとう」を見つけようとすること。「ありがとう」と言われるような活動をすること。以上の3点です。悪いところを探すのは、何の苦もなくできてしまう。不快感は、感じやすい。ところが、日常に溶け込んでしまうような、当たり前の、「快哉」を叫ぶほどではない、平凡な快適さは容易に気づくことはできない。だが、快適さに気づくことができれば、幸せをかみしめて生きていくことができるかもしれない。
先日。
近所でお祭りがあり、ちびっ子姉は、お友達とグループでみんな一緒に行くという。
そのために、お小遣いをくれと。
だから、差し上げた。
(お金を有意義に使うために、スポンサーとして注文つけておけばよかったなと、相方さんに言われて気付いた。お金の使い道に注文を付けられるのは、スポンサーでいる間だけだ。スポンサーでもないのにお金の使い道に注文を付けたとしたら、ただのクソバイスになってしまう。「他人の金にケチ付けてんじゃねーよ、こっちで稼いだ金だ。」となるだろう。付けておけばよかった注文例として「好きなものに使うこと(経験から好きなもの)」「経験したことのないものに使うこと」「友達におごること」の3点。特に「友達におごる」は、最強だな。おごりおごられで楽しくわいわいになると良い感じ。
今度からは、お年玉をもらうときに、どんな風な使い方をしてほしいかを、注文つけていただいて、使い道をちびっ子本人から報告してもらおうかな。)
しかし、朝7時くらいには準備していたが、一向に出ていかないで8時になろうとしている。いつ行くのかを聞いても、はっきりしない。迎えを待っているのだという。はっきり決めていないのだそうだ。友達が準備できるまで待っていたら、その友達が迎えに来るという。(何と言うか、時間の贅沢な使い方ですな。しかし、ハロウィンの時に、日付がはっきりしなくてブッチした記憶も新しいんですが、それでいいんですかね、ちびっ子姉。)
しびれを切らして、友達のところへ行ったのだが、ものの数分で戻ってきて、友達は「すでにお祭りに行って家にいない」ということが知れたという。
ちびっ子姉は、大変楽しみにしていたが、悲しそうな顔で戻ってきた。他の子のお家へ行くというので、その子と行ってきたらと言って送り出した。
ちびっ子は、祭りに行って、すっぽかした友達と遭遇したらしいのだが、どうやらワザとすっぽかされたらしいことが分かって帰ってきた。プリプリしていた。「今日はいいことが一つもない」と非常に嘆いた様子であった。
だが、今日はお祭りである。一人で寂しく行ったわけでもない。
尋ねていけば、それなりに楽しんでいる。好きなチュロスを食べて、友達と綿菓子を半々でわけっこして、別の友達が出演していたダンスステージの舞台裏を見せてもらったりしたらしい。うちに帰ってきたのは、出て行ってから、7時間は経ってからだ。楽しいことが一切なくってこの時間にはならないだろう。ただ、帰り道ですっぽかした友達グループと一緒に帰る羽目になって、厭な感じが最後に残ったようではある。ワザとすっぽかした友達グループは、嫌な感じではあるが、ワザとじゃないと言っていて悪びれもしないらしい。そこが、ちびっ子姉には一番引っかかっているところであるようだ。
まぁ、生きていれば嫌なことは結構あるし、子供は残酷というのがテンプレである。気にするなとは言えないし、仲良くしろとも言わないけれど、嫌な時に嫌なことだけを考えて過ごしていたら不幸だろうな、と思う。自分で自分の気分を盛り上げられるようになったら最強だろうと思う。そこでイイ所探しである。物事は常に表裏一体で、良いところと悪いところがある。常に悪いところだけということはないと思っている。見方を変えたり、立場を変えたり、目立たない部分にスポットをあてたりすれば印象は変わる。
世界を認識することは、自分を中心にしかできないというところを考えた場合に、他者を理解することの不確実性を思う。世界は、私というフィルターを通してしか見ることができない。つまり、私を中心にならざるを得ないものである。世界が、どうせ私中心にしかならないものであれば、私の都合よく、私が幸福でいられるように解釈してしまえばいいのではないのではなかろうかと時々思ってしまう。
ワザとすっぽかされたことも、超ポジティブに理解してしまえば、「ちびっ子姉の気を引きたかった。ちびっ子姉が好きすぎて、支配的欲求が形になった。」とできる。「やり方がまずい。」という点は動かせないかもしれないけれど、その背景に自分が少しでも心宥められる要素をでっちあげてしまえば、少なくとも心は穏やかになるのではないだろうか。
自分中心にしか見れない世界では、真実かどうかは、もはや闇に消えても糞の役にも立たない程度のものかもしれない。
やり方が良くないよと伝えて、改善を求めていくというところは外せない。悪意という事実に直面した時には、どんなに後からホンワリ解釈を当てはめたとて、傷つかないことはないだろうから。
いろんな傷を優しさに変えられたら良いな。
成長するための某かにに使わせていただきます。