幸か不幸かは、自分が決める。
ある行動をして、喜ぶのは誰か。
ある行動をしなくて、困るのは誰か。
私が寝る時間になって、ちびっ子に対して「もう寝なさい」「目を閉じて」という。
ちびっ子は仕事で夕ご飯の時間にしか帰らない私と、触れ合いたい。話をしたい。
私は、寝る時間が遅くなると、明日の起床時間に響いてしまうので、寝てほしい。
ココで、私がちびっ子に対して「『もう寝なさい、目を閉じて』と語る」行為を考えてみる。
この行為は、ちびっ子が私に構ってもらえる行為であり、ちびっ子が喜ぶ行為である。
この行為をしないと、ちびっ子を無視することになり、私が困る行為である。だが、目的は達成していない。
では、私のためと目的とを考える場合に、やめるべき行為である。
私は、よく食パンを買い忘れる。そして深夜に近所のコンビニまで買いに行く。
この行為を考える。
すると、週に一回の、「パンの日」を心待ちにしており朝には確実にパンを食べることのできるちびっ子が喜ぶ行為である。
しないと、心待ちにしていたパンを食べれずにちびっ子に責められるという私が困る行為である。
つまり、他人のために嫌々義務でしていることであり、この意識はいろいろ不幸を生む。食パンを食べなかった場合にキレるとか。
私がこの行為をどのようなモチベでやっているのかに無自覚でいるのがよろしくない。
ある行為をどのようなモチベでやるかということは、千変万化である。それこそ気は持ちようであるのだから。物事は常に光と闇、陰と陽とで混沌としているのだから。
幸不幸は、常に胸先三寸である。
『獣ゆく細道』大好き。
成長するための某かにに使わせていただきます。