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GWはそこかしこで見えない招き猫が働いているに違いない。

多い。何が多いって、人が多い。
ま。ゴールデンなウィークですからね。
斯く言うわたくしも、満喫中ですからね。
塵芥の一欠片として、外を出歩きましたからね。

行ってまいりました。水族館。
相方さんからは、わざわざこんな人が多いときに多いところへ出かけていくなんて、狂気の沙汰呼ばわりされましたけど。
何なら、超馬鹿にした目で見られましたけど。
行く間際にも、憐みの目で見られましたけど。
暴走夫人の名にふさわしく、行きたいと思ったら止まらないのよ。(THE開き直り、あるいは居直り…)
(わが相方は教育者を標榜していますが、わたくしに関する教育は一切しないとしょっぱなに豪語してますからね。放置です。生ぬるく見てます。いつも。いつも、と言いつつ、いつまで続くかは不明ですがね。私と相方の損益分岐点に至るまでは、きっと続くんでしょう。)

我が家のちびっ子は、電車が好きです。
だから、電車で出かけます。
無料駐車場併設の最寄り駅から、電車で出かけます。
もうね、無理は一切しない。疲れてきたら下車して休憩。
あらかじめ休憩を入れる駅を決めておくけれど、あんまり関係なく休む時は休む。ちびっ子が愚図るのは仕方がない。電車は、車と違って、公共の場だからそれなりに気を張っていないといけない(ワーワー騒いではいけない=ストレスたまる、ジッとしていなければならない=ストレry)し、下手すると立ちっぱなしになってしまうことも多々ある。それはそれは、疲れるだろう。想像に難くない。ちびっ子は愚図ってしかるべきだ。
だけれど、それに親がイライラしちゃうのは、あるあるネタだ。
イライラしちゃう気持ち、全然わかる。イライラしてた、わたくしも。
ただ、ようやっと最近ホメル教育が身に染みてきて感じることがある。

そう。
「ちびっ子は愚図ってしかるべき」と考えられるようになったのだ。
ちびっ子の立場で考えられるようになってきたように感じる。
(昔々の大昔、まだ私が子供であったころには、プリンにスプーンを差し込むくらいに容易にできていたことである。
ちびっ子は、イライラと至らぬところを指摘してくる母に対し、思うところがあるだろう。わたくしも、きっとちびっ子が感じているのと同様に、父上や母上に対し思うところがあった。きっと「自分もようせんくせに、何を偉そうに言いよるのか」(熊本方言)と。)


ホメル教育って、子供の立場になってみないと全然真実味がないのだ。(嘘くさいホメは、誰のためにもならない。カーネギーさんだって言っている。)
だってホメている行動やら心掛けやらなんてのは、大人から見たら、全然普通のことでホメるようなことではないのだから。
公共の場では大声出さないとか、走らないとか、暴れないとか、泣かないとか、座り込まないとか、普通のことだ。
ごはん中によそ見しないとか、ごはんを食べこぼさないとか、ごはん茶碗を手で持って食べるとか、普通のことだ。
でも、ちびっ子ができなくって、よく叱られていることだ。
普通のことだけれど、その「普通」は願いだ。「こうあって欲しい」という願いだ。
母上や父上、保護者が、ちびっ子に斯く在れかしと、願っていることだ。
そもそも「フツー、フツー」というけれど、普通って何よ。普通って、マナーができてるってことだしょ。だしょ。だしょ。全然普通じゃないよ。がんばってるよ。規律正しく、自分をコントロールしようとしているよ。
ホメてしかるべきだよ。ちびっ子は、願いにこたえようと頑張っていたよ。健気じゃの。可愛いよ。ちびっ子、かわいい。
ちびっ子が、願いに応えているうちに、この感動を味わうのです。思うさま味わっておくと、その後の愚図ってきたときのちびっ子に対する対応が変わると思う。


成長するための某かにに使わせていただきます。