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エゴイスティックに意思決定。

意思決定、その際には理由を問う。「なぜ○○がしたいのか。」


私は、私の快楽を、意思決定の際の最優先事項にしている。私が絶大なる愉悦を得られるとあらば、なんとも行いたいと思う。そう対した快感が得られそうにない場合は、どうでもよいと思う。
これは、私が理性的に「どのようにしたいか」という解とは異なる。
どちらかと言わずとも知れたことで、本能的なものだ。
私が、一人きりで過ごしているのであれば、私自身の快不快によって行動することに何ら問題ない。しかし。しかしだ。複数の人間と行動する場合において、このエゴイスティックな意思決定は、他人にとって醜悪なものへと変化する。

なぜならば、このエゴイスティックな意思決定は、完全に私自身の気ままな快不快指数によって成り立っており、外から測れるものではないからだ。
外から図りようがないということは、分類として不確定要素に当たる。不確定要素のある人間と行動を共にするとなれば、相手としては「待つ」こともあろうし、「急な変更への対応」を迫られることもあろう。
さて、そんな人間と行動したいと思うだろうか。

私は、嫌だ。

だから、変えていきたいと思う。主に、時間を軸にした行動に変えていくのだ。しかし、たいてい三日坊主である。5日目に復帰したが、継続しないのである。

私は、私の意思決定がエゴイスティックなものだということは、サラサラ自覚がない。指摘されて説明されてなるほどねと納得できる。
自覚がないというのは、大変である。

そして、自覚を促すために、エゴイスティックな意思決定を減らしていくために、「なぜそれをしたいのか」を問うようにしようと思う。問うた結果、自分自身の欲を満たすためのものであれば、見直すということをする



がんばろ。

成長するための某かにに使わせていただきます。