数十年ぶりの逃走

「まてコラァ!」
「く、ハア・・・・・・ハアハア」
 揺れる視界。噴き出す汗。全力疾走なんていつぶりだ。尽きていく自分の燃料と風を切る速度。対称的に、あれこれと余計な考えばかり湧いてくる。
 それは例えばこうだ。捕まったらどうなるんだっけ。今時速何キロ出ているのか。あの人かわいい。残りの有給休暇はいくつだ。甘いものを食べたい、できればいちごがたっぷり入ったパフェなんかがいい。でも安くてカロリー低めなやつ。いや、こんなに走っているんだ少々構わないだろう。
 メインから一本脇道に逸れた裏道を人目も気にせず大の大人が追いかけっこしている。すれ違う人間はみな仰天の眼差しをこちらに向けるが、携帯を取り出して通報したり、逃走の手助けをするような素振りを見せることはない。瞬間的に善悪を判断して片方に加勢することなどできないのだ。――どっちが善でどっちが悪かなんて、彼らにはわからないだろうから。
 一瞬だけ、確認のために振り返る。10メートルほど後方。パンチパーマ。色のついたサングラス。グレーに金のピンストライプのスーツ。いや、わかってもいいかもしれない。そして感想はただひとつ。80年代のやくざかよ!
「おいこらっ!いい加減にしろ!」
「うるせー。死んでも捕まるか」
 しかし、俺は不運を呪う。突き当りにそびえ立つ廃ビル、つまり右か左どちらか一方にしか進めない。人間は左右の道を選択するときほとんどが左を選択するという。OK。決めた。
 俺はわざと左に膨らんで減速することなく右の細くなっている道へとしなやかに曲がった。曲がった、と同時に原付に乗ったおばちゃんと接触した。走りながら身体をなんとかそらせたので左膝がボディーに弾かれたかたちになった。原付のおばちゃんはバランスを崩しそうになったが、幸いそのまま走っていた。そしてそのまま俺を無視して走り去った。まるで見えていないかのように。無慈悲だった。
 アスファルトに倒れこんだ俺はすぐに起き上がろうとしたが、蓄積した疲労も相まって脚がもつれてうまく立てない。
「観念しな」
 肩に置かれた手には必要以上の力が込められていた。

「飲むか?」
「ありがとう」
 民家の手近なコンクリートに並んで腰かける。くすんだ建物の間から見える空は健やかな青だった。
「土日休みなの? けんちゃん」
「いやー。たまたまだよ。運が良かったんだ」グラサンをポケットにしまうけんちゃん。
「またこうやって追いかけっこできるなんてね」
「最初メッセージ見たときは、こいつ正気か? と思ったけどな」
 二人して笑った。
 同じ小学校を卒業して、三十歳を過ぎた俺たち。「なにか変わった遊びをしよう」そう提案したのは俺だった。あえて今自分たちが「追いかけっこ」をするなら・・・・・・。
 手に握られた黄色と赤が懐かしい炭酸飲料。冷えたそれから滴が伝って、二人の影へと静かに消えていった。

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