縁の下の侵入者
人の家に棲みついてから5年になる。棲みついて、と言うからには勘違いしてほしくないのは、「棲みつく」という言葉のニュアンスから窺い知れるように、けして同意の上、ではないということだ。もっと言えば、棲みつかれている側、つまり家主たちは私が棲みついているということを認識していない、できていない。つまり、私は不法に彼らの家の一部分に潜んでいる状態なのだ。
私が棲みついたのは古い日本家屋の縁側の下から入った、地面との暗いスペースだ。そんな窮屈なところと思われるかもしれないが、木造建築ゆえの風とおりのよさと空間の広さは存外快適な私生活の提供に大きく貢献してくれている。ゆえに私はいまの生活に大変満足している。だから願わくばこの生涯を終える日まで、またはのっぴきならない理由で去らねばならないその日まで私は平穏無事に過ごしたい。
もちろん勝手に棲みついている身分だということは大いに自覚している。だから家主たちに見つからぬよう努力を怠ったことはないし、彼らに迷惑をかけるつもりは毛頭ない。彼らの目に映らない虫が家に住んだとて、それは彼らの人生に影響を及ぼさないし、幸福を損ねることにはならない。私は慎ましくありたいのだ。
異変に気付いたのはいつ頃だろうか。
時折、家のどこかで不意に音が鳴ることはあった。それは自然の――もとは自然の一部として存在した木という生き物の声だと思う――音で、たとえ人の有無にかかわらず発生するものなのだ。
しかし、それとは明らかに違う種類の音がしていることに私はある時気が付いた。それからというもの、音に注意して生活をするようになったが、その自然的なものと異なる音は滅多に発せられることはなかった。張り詰めた緊張の糸がどこか不意にたゆんだ瞬間だけ生ずるような、純白のシーツにほんの一点だけ見間違うほどの微かさで溶け込んだ染みのような不用意さで唐突な出現だけに限られていた。その変質に気付いてから鋭敏な意識で救い上げられた木霊は生きているような不安定さを帯びていることがわかった。
音の異変を察してから一年が経った頃、私の疑いは確信へと変わっていた。誰か知らない人間がこの家に潜んでいるということだ。しかし、私は警察へそのことを届けて捜索を願い出るようなことはしなかった。べつに知らない人間がどこかに潜伏していたとて、いまさら何が変わるわけでもなかったからだ。齢70を超えた老いの端くれに失うものなどない。
勝手に潜むもよろしい。勝手に出ていくもよろしい。来る者は拒まず、去る者は追わず。ただ縁の下を貸せれば、そのことでひとかたの役に立てれば、それでよいではないか。そんなことを思ったのだ。
不本位ながら、家主一家を殺すことになったのは、ある真夏の熱帯夜だった。完全に家主たちが寝静まった折、月に一二度だけ微細な量の水を蛇口から頂くことがあった。その日も変わらぬ慎重さでことに至ったが、都会から帰省していた息子夫婦の連れていた犬が吠えたのだ。私は仕方なく、それを処理した。しかし、おかげで私には容易には消せぬほどの悪臭が染み付いてしまった。一刻も早く立ち去りたい気持ちと今後の安寧を考えた際の最適な処理方法に悩んだ私は、ついに一家全員に手をかけた。
翌日の昼頃まで汗にまみれながらもみっちりと適正処理した私は、日本家屋の縁の下へとまた収まった。もうこの家には誰もいない。
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