不在のアパート
ピンポーン。不在だ。時間を指定されないのも困りものだな。
飯田は手早く不在票を殴り書くと、ドアに開いた小さなポストへと投げ入れた。
ネット注文が当たり前になってからというもの、運送会社の抱える業務は時代を代表する激務へと変貌した。とはいえ、一時期に比べればこれでもだいぶマシになったほうではある。世間の注目を浴びるまでは、終わりの見えない仕事に心をすり減らして姿を消した同僚が後を絶たなかった。
だからこれぐらいで愚痴を言ってちゃいかん。飯田は自分に言い聞かすようにかぶりを振って車へと乗り込んだ。
小さな運送会社に勤めて十年目になる飯田だが、いま彼のキャリアで初めて、不審に感じる配達先があった。
それはここ一か月ほど前に配達が始まった、ある一棟のアパートだった。そのアパートはどこにでもある、とくに特徴のないアパートだった。二階建ての八部屋からなるコンクリート造りで、薄いピンクの壁にところどころ白が混ざった外観をしている。別段おかしなところは見受けられない。
しかし、このアパートには不気味な共通点があった。それは、日時指定のない荷物が必ず注文され、どの時間帯に配達に訪れても絶対に住人が受け取らないというものだった。つまり、いつ配達しても留守ということだ。
時間を指定していないのだから、究極的にタイミングが合わないだけかと飯田も一度は考えた。
しかしそれではどうにも説明のつかないことがあった。
それは、このアパートの住人全員、誰一人として一度も荷物の受け取りに応じたことがない点だった。飯田は不在票を入れるばかりで、誰にも荷物を届けたことがない。居留守なのか本当に不在なのかはわからない。飯田はこの一カ月間、アパートの住人をただの一度も見かけたことがなかった。
あまりにおかしいと思った飯田はもちろん原因を突き止めようとした。しかし、駐車場に普通に車はあるし、駐輪場にバイクや自転車もある。それらが日によってあったりなかったりすることも確認済みだった。登録されている連絡先にも掛けてみたが、どれも音信不通だった。
荷物は配達されることなく次々と返送されていった。
しかし、それでも懲りずに荷物の注文は行われた。
その日、例のアパートへの配達が入った。ただ珍しいことに、この日の駐車場はすべて車で埋まっていた。飯田はチャンスだと思った。
ピンポーン。鳴らしてみる。もちろん期待はしていない。案の定、ザーという砂嵐の音が聞こえるだけで、あくまで沈黙が広がっていた。
しかし、今日の飯田は違った。
「すみませーん! 荷物のお届けですが! いらっしゃらないんですか?」
建物の向こうで通りを走る車の行き交う音がするばかりだ。
「荷物返送扱いになりますがよろしいんですね?」ドアの前で声を張り上げる。
ドンドン。こぶしを作ってドアに打ちつけた。
「お荷物の配達に参りましたーー!」
半ばやけくそで叫ぶように扉の向こうへ投げかけた。
返事は・・・・・・ない。
飯田が諦めて不在票を取り出したその時だった。
一斉に、同時に、アパートのドアが勢いよく開いた。視界の端から端まで、四つの口がガパリと開いているようだった。階下からも同様に音がしたので、もしかしたら同じ現象が起こっているのかもしれない。
飯田は驚きのあまり、立ち尽くすしかなかった。これは現実なのか。一瞬だけ、気が遠くなった。
四つの扉からはそれぞれ、顔も背も格好も性別もまったく異なる老若男女がぺたぺたと出てきた。彼らの共通点は裸足で、そして無言だった。ただじっとこちらを見つめながら近づいてきた。
「に、荷物のお届けに、まいりました」かろうじて声を発した。
飯田はあまりの気持ち悪さに今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、この間もただじりじりと、出てきた住人たちは飯田へと詰め寄ってきた。唯一の逃走経路である階段はいまいる場所からもっとも遠い位置にある。たった数十メートルのはずなのに、果てしない距離に感じられた。
すると、階段から四人の人影が現れた。そのことがわかると、どうしようもない絶望感がすっぽりと飯田を包んだ。
瞬間、飯田は背後の心もとない柵から身を乗り出していた。
外傷はさほどでもなかった。二階から飛び降りただけだったので、たいした高さではなく命に別状なかった。今回の件は勤務中の事故ということになったが、飯田は運送会社を辞めることになった。
身体の問題ではない。かつての同僚か、それ以上に、飯田の心は潰れ切ってしまったからだ。
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