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『書生節』とは

「書生」とは今や聞き慣れぬ言葉となってしまったが、絣の着物にヨレヨレ袴、裸足に下駄履き、破れた角帽斜に被り、黄ばんだ兵隊シャツが袖や襟から見え隠れする、要するに、明治大正頃の学生(主として大学生で、しかも貧乏という二文字が付くのが通常)の事を指すのである。苦学生という言葉も死後同様であるが、文字通り書生とはそれである。下宿代を三つも四つも溜めていたりするが、国家の政治に対する意見は確たるものを持っている…硬派なのである。そんな書生に「節」が付くとはこれ如何に。突如として「書生節」が日本に誕生したのではないという事をココで言わねばならぬ。

 サテ、時は明治のご一新。文明開化という美文句のもと、西洋の文化が日本にドシドシ入ってきた。その一つに、人前で堂々と自分の意見を筋立ててお喋りをするというスタイルも入ってきた。それを「スピーチ」と呼んだ。が、より人々に解りやすいようにと日本語に訳したのが福沢諭吉と言われている。当初、「演舌(えんぜつ)」としたらしいが、どうにも下卑た感が否めない。そこで「演説」と改めたらしい。

 明治の10年代後半になると、憲法や国会、民主主義の世に必要な装置を日本も作らねばならぬとの要求が高まってきた。為政者達は「演説」という形式で、持論を民衆に発信した。しかし、これは21世紀の今も同様であるが、権力者が幅を効かせる馴れ合いのシロモノが多かった。それに反発したのが自由民権論者と言われる「壮士」達であった。壮士達は民衆の為の憲法、国会でなければならぬと、演説会を全国で開催した。

 しかし、一般庶民には難しい内容であった。そんな中登場したのが壮士達による演説の歌謡化である。五七調の馴染みやすく、且つ平易な言葉を並べ、それを歌本冊子にし、道端で朗々と歌ったのである。演説を歌にしたのだから「演歌」だと言われた。現代の「演歌」は実にココから始まるのである。また、壮士が節を付けて歌うのだから「壮士節」とも呼ばれた。

 この壮士節スタイルも突然の発想ではない。元来、日本には大道で人々に何かを訴え、それを商売にする者が数多いた。歌を歌いながらの商売もあった。「飴売り」や「唐辛子売り」などがそうである。そして、また、道端から人々は情報を手に入れたりもしていたという伝統(瓦版売りがそうである)もあった。その融合体として誕生したのが壮士節なのである。大いに流行った。しかし、これはあくまで政治活動の一環であり、商売でなかった。故に、歌本は無料で配られたりしたそうである。

 その壮士節も自由民権運動が下火になると共に姿を変えていった。無くなったのではない。書生達がアルバイト感覚で道端に出て朗々と自作の歌を歌い、歌本を売ったりするような形として残ったのである。表題の「書生節」がココでようやく登場してくる。

 日清戦争、日露戦争などの時には、大いに流行った。しかし、流行ってくるとマガイモノも出てくる。本来は自分の主張を歌にし、歌本を作り、覚えてもらう為に買ってもらうという形式であったが、それは小遣い稼ぎ程度のものであった。が、これは商売になると踏んだ者達の登場である。書生でもない者達があえて書生の格好をし、歌本を製造し、道々で歌っては売るという姿が随所に見られるようになった。歌の内容も国家に対する意見、反抗という政治的なものから、次第に文化、社会という三面記事的な内容が増えてくる。職業的(芸人)な書生節の者達は「演歌屋」と呼ばれたりした。 

 そして明治の末年になり、書生節に大きな転機がやってくる。ただ、歌うだけではなく、バィオリンを弾きながら歌うという度肝を抜く奇抜な形式が誕生したのである。一般には、神長遼月という人が無声映画の楽団の楽器からヒントを得たと言われている。人々はさぞや驚いた事であろう。見慣れぬ西洋の楽器を肩に乗せ、書生姿の青年が道端で歌を歌うのである。今の若者が道端に座り込みギターを掻き鳴らし歌うのとはスケールが違う。最初はヘタだったそうな。イヤ、ヘタにも程があるというレベルだったらしい。しかし、人気が出た。書生節をやっていた者達はこぞってバィオリンを手に入れ、道端でギヤギヤやりながら歌いだした。世は大正時代へと入っていた。故に、この時期以降、書生節の事を「大正演歌」と言ったり「バィオリン演歌」と唱えたりする。

 バィオリンを手にした演歌屋はもはや書生ではなく、それを職業とする者達で占められるようになり、縁日や遊廓などで巷で起こった心中事件や殺人事件、また艶っぽい部類の歌などを多く歌い、本を売った。この頃の呼ばれようとしては「演歌師」または、インテリから見て猥雑極まりない者達という意味で「艶歌師」の文字があてられたりもした。

 職業演歌師達はバィオリンを手に全国を流して旅をし、諸国の巷で歌い続けた。が、レコード産業の発達やラジオの開始などにより、その数を減らしていき、昭和の戦争前にはその数は僅かなものになってしまった。

 しかし、絶滅したのでない。戦後の混乱した時期からカラオケが登場するまでは、色町や飲屋街で「流し」と言われる人達がいたが、まさしく彼らはバィオリンをギターやアコーディオンに持ち替えた演歌師であった。が、今はその姿は街中を探しても見あたらない。

 そして、21世紀の今、演歌師は蘇るのである。しかも、書生節の形をそのままに。ヘタなバィオリンをギヤギヤさせて、政治の歌から巷の噂まで。泥臭い事この上ない芸として。しかし、泥臭いからこそ、イヤ、キナ臭いからこそ、民衆の一番底辺に存在し続けてきたスタイルだからこそ見えるものがある。歌えるものがある。歌にするから言える事がある。不景気不景気と皆が口にする昨今だから、蘇らせねばならぬと思うのである。

文 旭堂南海

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