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日記をつけるという習慣 其の2

読書習慣と日記の融合


読書ノートを日記と絡める

私は中学から日記をつけ始めた。
初めは好きな子のことを存分に書いていただけだった。
その日の思い出を記録すると、その日の出来事がフラッシュバックしてくる。何度も何度もその光景が浮かび、彼女とその都度都度、すれ違えるし、同じ会話を何度もできるし、何度だって笑顔を見ることができた。

そんな日記生活は、私の心の支えになり、生きがいともなっていくのだった。
「今日は日記に何を書こうか」
そんな事ばかりを考えて毎日を過ごすようになっていった。

すると当然のように、彼女との出来事が何もなく、何の進展もない日、という日が訪れる。
そんな日は、「何を書こうか?」と考えても浮かばず、仕方なくその日に読んだ本のことを書くようになった。

今日は、江戸川乱歩の【人間椅子】を読んだ。
何とも形容しがたい作品であった。
椅子の中に入って、好きな女性に座ってもらう事が生きがいだなんて、僕には到底考えもつかないことだったが、「なるほど、そうすればイヤでも密着することができるし、自分自身の慾というものが満たされるであろう」という感想も抱いた。
そんな感想を抱く僕も、主人公と同じくらいの変態なのではないと感じたが、「いや待てよ。主人公は本当に変態なのか?男であればそんな願望の一つや二つ持つものではないだろうか。ましてや、自分が『椅子職人』であれば尚更ではないか」とも思うのだ。
そんな僕は、変態なのか、はたまた正常なのか、この答えは誰にも聞くことができない難問である。

中学当時の読書ノートより

こんな具合に、日記とも、読書感想文ともとれるような内容の、読書ノートを付けるようになっていった。

この読書感想文寄りの読書ノートから、日記寄りの読書ノートに変わっていくのに時間はかからなかった。
日記は、普段の生活をしたためたもの。一方読書ノートは、本を読んだ感想。その二つを掛け合わせると、このようなものが出来上がるのだ。

田山花袋『蒲団』
主人公は、出て行ってしまった娘のにほいの残った蒲団に顔をうずめて、娘の残り香を嗅ぐ。その娘を追いかけるでも、話をして理解するでもなく、ただ、にほいを嗅いで満足する。

今日、友人とちょっとしたボタンの掛け違いで、言い合いとなってしまった。これは、僕がもっと積極的に話し合いを持つべきだったのではないだろうか。
結局、僕は友人のにほいを嗅いで満足しているような状態なのではないかと思う。『蒲団』の主人公は、恐らく田山花袋本人であるが、田山花袋は娘と積極的に話をして、理解し合うことができていたら、もっと結果は違ったのではないかと思う。
しかしこれは、田山花袋のことを、僕は他人だと、他人事だと思うからいえることであり、実際に自分のこととして捉えると、僕もにほいを嗅いで我慢するような結末を迎えてしまうのかもしれない。
どうしたら、田山花袋のように、マスターベーションではなく、人と話すことを恐れずに、自分の理想の結果を導くことができるのだろう。

中学当時の読書ノートより

自分の日記と、本の内容を結び付けて考えることにより、本の内容も頭に入る上に、日記としての内省も進む。
このような読書ノートを付けていくようになって、私の読書ノートは、いつしか好きな彼女のことよりも、読書ノートの比率の方が断然多くなっていく、という変化を遂げていく。

本の内容と、私生活を結び付けると、一冊の本のちょっとした文節でも、今日の出来事とつなげることができたことが、読書日記が続いた秘訣の一つであったと推察できた。
つまり、そんなにガッツリと本を読んでいなくても、『気になる一節』さえ抜き出すことができたら、その日の読書日記は出来たも同然だったのだ。

毎日、読書日記を書くことが、楽しくて仕方なくなっていったのは、言うまでもない。

かくして私は、日記という『好きな女の子の記録』から、読書ノートと日記の融合である『読書日記』へと進化を遂げた、私自身の生きがいを育んで今に至っている。
この読書日記は、今でも日々進化しており、現在はモレスキンのラージサイズの手帳に、毎朝書くルーティンを守っている。
今や、書かなくては気持ち悪くなってしまった。

明日の朝は、何の本について書こうかしら。

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