見出し画像

新約聖書『ヨハネによる福音書』

4番目に位置づけられるヨハネによる福音書の立ち位置

信仰の対象としてのイエス

初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神とともにあった。
すべてのものは、み言葉によってできた。
できたもので、み言葉によらずにできたものは、何一つなかった。
み言葉の内に命があった。
この命は人間の光であった。
光は闇の中で輝いている。
闇は光に打ち勝たなかった。

ヨハネによる福音書より抜粋

全ての事柄が言葉によって始まり、言葉がなければ始まらなかった。
というテーゼは、そのままでも十分に理解できる内容ですね。

人間は言葉というものを発見し、それによって世界を切り取り、それによって一切の思考を深めてきたのだから、言葉が万物を創造するという点は、非常に共感できました。

『人間となったみ言葉』
み言葉はこの世にあった。
この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。
み言葉は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。
しかしみ言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。

ヨハネによる福音書~賛歌二人間となったみ言葉より抜粋

神は言葉であり、言葉は神である。
「言葉を受け入れた者は、神の子となる資格を与える」
とあるのは、『素直に聞く耳を持っているものは救われる』のだと言いたいのではないだろうか。

実際に、現実社会の中でも、聞く耳が無いために損をしていたり、人から認めてもらえるチャンスを棒に振っている人がとても多くいるように思います。
神のみ言葉ならなおさら。

万物はみ言葉によってできている為、み言葉を受け入れないのは、万物を受け入れない事と等しいという価値観であると解釈するならば、私も同意見であるし、現在の実用書で述べられている事にも、かなりの割合で通づる部分が存在するのだと感じることができました。


中島敦と同じことを言っている

かの、中島敦も『文字禍』という作品の中で、『歴史は石板に刻まれた文字である』と述べています。
このヨハネによる福音書の中でも、『この世はみ言葉によってできた』とあるのは、同じ意味合いではないのかと受け止めたのです。

み言葉により、すべてのものは作られ、み言葉として残っていないものは、この世にも存在しない。
文字として刻まれたものが歴史であり、刻んだ者が書き忘れた、書き洩らしたものは歴史にあらず。

この二つは、言葉は違えども同じことを言っているのだと感じたのです。

『み言葉』に注目したヨハネによる福音書は、新約聖書の中でも、私にとって共感する度合いの多い、非常に強いメッセージ性を持っていると感じる作品となっているのです。


とっても嬉しいです!! いただいたサポートはクリエイターとしての活動に使わせていただきます! ありがとうございます!