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上京して、なめられないためにアゴのしゃくれを手術で治した噺。

とっっても上京したかった。

是が非でも上京したかったのだ、僕は。

「東京の人は冷たいらしいよ」

と、言われようが

上等じゃねえか。

と、そう返す心構えであったのだ。

僕は山形出身である。

そりゃもう田舎で、周りを見れば田んぼばかりで、夜はカエルが大合唱。田んぼのあぜ道を自転車で走れば、水たまりを自転車が走って水飛沫が上がるように、大量のイナゴがぴょんぴょん跳ね上がる。
そんな場所で、人見知りを爆発させながら僕は育った。

当時、僕は高校3年生。
すでに高1の時から、上京しようと心に決めており、その気持ちは日に日に強くなっていった。上京の理由としては、大学進学とシンプルなものであったのだが、もっと大事な理由がいくつかあった。

【その1】
シンプルに東京への憧れが半端なかった。
小学6年生で家族旅行で行った東京は、全てがキラキラしていた。当時、野球をしていた僕は東京ドームに行き、巨人阪神戦を観戦したのだ。いつもテレビの画面でしか観ることのできない選手が、今自分の目の前に確実に存在しているという驚きはとてつもないものであった。

【その2】
テレビ東京が映らない。
気になる番組があっても、見られない。もしくは3ヶ月遅れでやってくるという時差がある。

【その3】
芸能人と付き合える可能性が上がる。

【その4】
芸人になりたかった。

【その5】
僕は、クラスでのヒエラルキーがとても低かった。山形では敗れし者だった。

【その6】
田舎は狭い。近所の人はみんな僕のことを小さい頃から知っているし、スーパーやコンビニに行けば、同級生に会ったり、その両親に会ったりと逃げ場もない。

以上の理由で、僕は、僕のことを誰も知らない、そんな土地で一から始めたかったのだ。

だが、上京をする上で、僕には大きな悩みがあった。

それは、アゴだ。

僕は、クッキングパパのようにアゴが出ていた。しかも料理もできなかったので、ただアゴが出ているだけの青年であった。
下顎が出ていたので、噛み合わせも悪い。歯科矯正で治そうとしたのだが、治らず手術をすることになった。


学生時代はアゴが出ているのが、すさまじくコンプレックスであった。英語の時間なんかは地獄で、

「Long long ago…」

「昔々…」と語るときは、僕のアゴに注目が集まるのだ。思春期の僕は顔が赤くなる。

「昔のことばっかり語ってんじゃねえ!未来をみろ!未来を!!」

と、心の中で叫んでいた。

アゴは別に治さなくても最悪生きてはいけるのだが、コンプレックスが過ぎて早く治したかったのだ。

だから高校時代は、レスリング部で高校3年の最後の大会で優勝し、山形県チャンピオンとして、インターハイの切符を手に入れたのだが、辞退した。

だって顎を治したかったから。

コンプレックスだから。

手術は下アゴの骨を切り取り、上アゴに移植するという結構大掛かりなもので、ようは骨折と同じなわけだ。ボルトで固定して半年後にはボルトを取る手術を行うのだ。

高校3年の夏休みの期間にやる予定になっていた。
術後は1ヶ月くらい口が開かないため、ずっと離乳食。もちろん、レスリングなんかできないのだ。

なにより上京である。山形でさえ負けていた僕は、それでも大都会東京で戦わなければならない。なのに、山形の田舎もんでアゴがしゃくれている奴なんて太刀打ちできるわけがない。

本気でそう思っていたのだ。

手術をすれば、全てが変わる。

だが、顧問の先生はとめた。

「今後の君の人生のために、アゴの手術よりもインターハイを優先した方がいい。絶対君にとって、大事な経験になるから!」

両親も入れての四者面談。
優勝直後に話し合いが行われた。
熱い先生でいい先生だった。
卒業後も先生にはお世話になり、恩師の1人である。
その優しい先生に対して、私はこう言った。


「先生‥アゴを治したいです‥」


「スラムダンク」三井の、
「安西先生‥バスケがしたいです‥」
ばりの名言がバシッと決まったのだ。


先生はまさかの返事に驚き、こう言った。
「お父さんお母さんからも、なんか言ってあげてください!!」


父は言った。


「息子がこう言っておりますので‥」



トドメの一撃となり、僕のアゴの手術が決まった。

無事にアゴを治して、上京したわけだ。

上京の時は、簡素なものであった。
電車が走り出したら、それを追いかけて「頑張れよ〜」なんて叫んでくる友達もいなかったし、「都会の絵の具に染まらないで帰って!」なんてことを言って、結果的に木綿のハンカチーフを送ってくれとせがむ彼女もいなかった。

新幹線に乗っているときは、全てをリセットして、一から始めることができる清々しさ、不安、家族との別れの寂しさなど、いろんな思いが混ざりあった感情であった。

大宮を過ぎると、背筋が伸びるのが分かる。
そして、上野駅付近になればビルの数々、否応なく東京を実感する。


そこから僕の東京での一人暮らしが始まった。

大学に入学し、華やかなキャンパスライフが待っているだろうとウキウキ、ワクワクな感情だったのだが、そんなことまるでなかった。
だって、コミュ力ないんだもん。
やっぱり、顔が変わっても人間そんな簡単に変わらないもんですよ。

そりゃ、心はしゃくれたままなのだ。

相手とのコミュニケーションの噛み合わせが合わないのだ。

僕は落語研究会、いわゆる落研のサークルに入った。芸人を目指していたし、落語も興味がある。友達はいないが、人一倍表現をしたかったのである。
落研に入り、同級生とはまるで話が合わなかったのだが、先輩たちとは仲良くなった。次第にサークル棟の5階にある落研の会室(3畳しかない)部屋に入り浸るようになった。
住んでいるアパートは6畳一間。
僕の大都会東京での生活は、3畳の会室と6畳の自宅をただ往復するというものであった。


思い返せば、上京していい思い出などまるでなかった。

だが、今思えば不思議と青春だったなと思う。

他人から見れば、なにが楽しいんだこの曇天野郎!と言われもおかしくない奴だったし、僕自身もその時はもっとうまくできないもんかと、それなりに悩んでいた。

それでも東京は楽しかったのだ。

山形にいた頃は、誰かと遊ぶわけでもなく、レスリングをやったり、いやいや勉強したり、アゴがしゃくれたりする以外は特になにもしていなかった。
だから東京の全てが新鮮過ぎたのだ。
スタバに行って人生で初めて「グランデ」という言葉を聞いたり、美容室で美容師にすごい話しかけられたり、新宿のUNIQLOのデカさに度肝を抜かれたりした。
また、落研の先輩たちと首都高をドライブして、夕日を見てキレイ!と思ったりと、たまに上京する前に思い描いていた青春がちらほらやってきたり、テレ東の深夜ドラマに感動して孤独を癒したりと、それが僕にとっては充分すぎるほどの青春であったのだ。

だいたい青春は後で気づくもんですね、はい。

あれやこれやしているうちに、僕は25歳の年に落語家なり、そして33歳の今も東京に住み続けている。結婚もして、山形にいた18年という年数に年々近づいてきている。山形に行くことが今では非日常である。
仕事やなんやら疲れた時には、あ〜山形はいいなあと、山形の田園風景を見ながら思う。カエルの合唱につつまれながら寝るのがとても心地よい。

人間、隣の芝生は青いものである。

今は、東京はただの日常で、当たり前の光景であるのだが、ふとした瞬間に、あー東京にいるんだなあと実感するタイミングがある。

夜の東京タワーを見た時とか。

首都高を車で走ったりとか。

山形の田舎もんまるだしで、東京を実感するそんな瞬間が未だに、たまらなく好きなのだ。

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