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オリジナリティの難しさ

「一つの話を思いつくには、様々な経験が必要です。たとえば過去に読んだ小説やマンガや…あの時のこと…。過去に見た映画や…あの時のことなど…。いろいろな体験がもとになって、一つの物語を思いつくのです」

月間少年ジャンプ(現:ジャンプSQ.)連載の漫画作品『ギャグマンガ日和』の『第10幕 ニュートンの万有引力』に、このセリフが登場します。

中学生の頃に初めてこのセリフを読んだのですが、当時漫画家になりたくて下手な漫画ばっかり描いていた私にとって、それはためになるものでした。今でも深く私の中に根付いてます。

最近のSNSでの話題について考えていた昨日、このセリフを思い出しました。

作品を作るということや、それを通して自分が何をしたいかは、作り手により千差万別だし、そうであったほうがいい。そうあるのが自然で、当たり前です。そして何かを作ろうとした時、作る人のルーツにも、色々なものがあると思います。

昨日、SNSを眺めながらふと疑問に思ったのですが、どんなジャンルにもコンテンツが溢れすぎていると言われる昨今、「作る起点」はどこにあるのでしょうか。

溢れすぎている、もう出尽くして後追いしかされていないのが(私は決してそうは思わないけど)仮に事実とします。じゃあ「これならオリジナリティ溢れる」と自分で思う何かを作って、それを多くの人に向けて売りたい場合、必要なのは周りのものとの比較になってきます。これは良い、悪いでは本当になくて、比較を重点とした作り方は、商売であるなら特に大切だし、必要です。

前置きはここまでです。ここから先はお気持ち表明です。これは予防線でもなければ、これから私が書くことに対する防衛でもありません。んなわけあるかいと思ったら、素直にそう思って読んでください。

何かに影響を受けてものを作って、たとえそれが原典を強く想起させるものであったとしても、そのままいくか、ストップをかけるかは、あくまで作り手に委ねられると思います。パクリと取る人もいるだろうな、とか、これくらいなら受け入れてもらえるんやないか、とか、そういうことは世に出してみなければ分からない。

しかし、そこへ踏み出す前に一考してほしいのは、「これってもうアレのパクリだよね」と思われないようにすることが、原典に対する尊重なんじゃないか、ということです。

思われないようにするにも、色々な手があると思います。分かりやすいところで言うと、笑いを取るためのパロディであれば、『ターミネーター2』の「b」とか色々な作品で取り入られています。

それは物語の本筋として盛り込むものではなく、あくまでひと時の笑いのためで、そしてそれは「アレと同じだけど、これなら意図が伝わるよね」という作り手からのサインであると思います。物語の本筋ではなく、物語の中にあるアクセントの一つのために、その作品の力をワンシーンで借りる。パロディは尊重のひとつの在り方です。

次に、インスピレーション。これは複雑です。何かを作る前に何かから受けたインスピレーションというのは、作品の本筋になることも多いです。

その強いインスピレーションをどう隠すかと言うとセコい言い方になりますが、隠し方は大切です。そして、パクリにならないために隠し、その上でなんとか作品のオリジナリティを出そうとする姿勢は、程度によらず原典への尊重であると思います。

何かを作る時に、何かから影響を受けないなんてとても難しく、「オリジナル」は表現も証明も容易ではありません。でも、パクリにならないために何とか、自分の色々な経験や体験からアイデアを絞り出したり、これでいけるかどうかを熟考したりして、試行錯誤を繰り返された結果として、世に作品が出ていくと思います。明確な尺度なんて、どこにもなくてもです。

まとめです。

原典が大好きで、参考にしているなら、偉大な先人であるとするなら、だからこそそれを自分(たち)が表現したい事の中にいかにして取り入れるかは、慎重にならないといけないのではないでしょうか。原典が持つ魅力はどのようなもので、なぜそうして作られているのかを考える事も含めてです。

もう早い話が、あのゲームの開発陣は、もっと素直に自分たちが叶えたい、作りたいことにまっすぐになっても良かったんじゃないでしょうか。受けるかどうか分からなくても。

そうした上で出てきたものなのだとしたら、そうなんだろうなとは思いますし、それも一つのものづくりなのかと思います。でも私は、上に書いたような疑問が尽きないです。

昨日考えていて強く感じた難しい疑問が、今回のnoteでした。

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