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学徒出陣

 昭和16年12月8日、日本海軍が真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争が始まった。最初の頃は日本の連戦連勝だったが、早くも、17年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は惨敗し、18年2月にはガダルカナル撤退。4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死。5月にはアッツ島玉砕。8月・9月にはタラワ・ヌキン玉砕と、日本軍の劣勢は明らかになりつつあった。アメリカは18年の中頃には、戦争の峠は越えたとして兵器の生産を減らし、日本の占領政策を本格的に研究し始めていたのである。だが、日本は「欲しがりません。勝つまでは」とか「勝利の日まで」としゃかりきになって戦争遂行に全力をそそいでいた。そういう状況下で、兵員不足を補うため、それまで兵役免除の特典を与えられていた文系の大学生・専門学校生で20才以上の学生は兵役に服し、戦場に赴くことになった。いわゆる学徒出陣である。

〇出陣学徒壮行式
 昭和16年10月21日、雨の中現在の国立競技場で出陣学徒壮行式が挙行された。東條首相・岡部文部大臣の見守る中、学生は銃を担ぎゲートルを巻いて、大学ごとに雨中の行進をしたのだった。この日式場に参加した学生は約2万5千人。スタンドを埋め尽くした学校関係者、父兄、都内の旧制中学、女学校、女子大生等、見送る人々は約5万人だったという。その状況はNHKの志村正順アナウンサーによって全国に中継された。

「氷雨けむる神宮外苑。御国の危機存亡の時に至り、勇躍して戦場に向かわんとする若人○○名。東京帝国大学を先頭に、あとに続くは早稲田・慶応・明治・・・」

 志村アナウンサーの絶叫調の放送は延々と続いた。行進が終わり、東條首相、岡部文部大臣の激励の辞のあと、学生代表が答辞を述べた。それは次のようなものだった。

「我らもとより生還を期せず」

 つまり、「我らは生きて帰ってくるつもりはありません」というものだった。式が終わり、式場を出た彼らは皇居前に行って「天皇陛下万歳」を三唱し、それぞれ家路についた。出陣壮行式から学生が軍隊に入隊するまで10日の余裕があった。地方出身者はそれぞれの故郷に帰り、友人・知人・親類等に挨拶に行ったり、友人とは酒を飲んで別れの宴に酔いしれたという。

 中央大学のある学生は友人との別離の席で島崎藤村の“高桜”の詩に曲を付けて共に歌い、別れの思い出としたという。

 高桜  遠き別れに耐えかねて この高桜に登るかな
     悲しむ勿れわが友よ  旅の衣を調えよ

                別れと言えば昔より  この人の世の常なるを
                流るる水を眺むれば  夢恥ずかしき涙かな

6番まであるのだが以下省略する。その後、この歌は中央大学の学生によって歌い継がれ、昭和30年頃レコード化され、大ヒットしたのだった。私が中学生の頃だったと思うが、当時大学生だった兄が夏休みや冬休みで我が家に帰ってきた時、よく歌っていたのを記憶している。


〇地獄の軍隊・戦場
    軍隊は人間性・人格等は無関係に人間を一種の兵器にするところだった。そこには科学性・合理性はなく、神国日本の兵士はかくあるべしと、体力の限界を超えた猛訓練が朝から晩まで続けられ、牛や馬の方が大事にされたという人もいた。そして戦場に送られ、十分な食糧や武器等はなく、アメリカ軍の攻撃にさらされて、多くの学徒兵は戦死させられたのだった。

    戦没学生の手記『きけ、わだつみの声』(岩波文庫)という本があって、現在も販売され続けている。“わだつみ”とは海の神様のことである。昭和25年頃に発行され、当時のベストセラーになった。学校に行きたいとか死にたくないとか書こうものなら半殺しにされた時代である。しかし、その行間には20代前半に死なねばならない無念さがにじみ出て、読む人の胸を打つものがある。かつて私が所属していた会社の社長は、学生時代に読みながら涙を流し続けたという。この本の一節だったと思うが、「死んだ人が何も言えない以上、生き残った我々は何を言うべきか」という一文が私には強烈だった。特攻隊基地で手伝いに来ていた女学生に、基地を出たら街のポストにこれを投函してくれと頼んだ手紙には、本心を赤裸々に書かれたものも多くあったという。私はかつての特攻基地で実物の遺書や日記を見たことがあるが、大部分は立派なことを書いてあった。

〇昭和20年8月15日、戦争は終わった
    私が学生時代に聞いた老教授の話が忘れられない。老教授が言うには、今まで試験の答案に満点を与えられた学生が二人いたという。一人は老教授の研究に大きな影響を与えたヒントが書いてあった。老教授は学生の下宿に行って、今後の研究課題にさせてもらいたいと言ったところ、学生は快諾してくれたという。老教授はひそかにこの学生を自分の後継者にと思い、目をかけてやり、成長ぶりを楽しみにしていた。が、学徒出陣でその学生は戦地に行ってしまった。戦争が終わり、幸運にも生き残った学生は続々と学園に帰ってきた。が老教授が一日千秋の思いで待ち続けた学生は再び元気な姿を学園に見せることはなかった。つまり、戦死したのである。日本は敗戦によって、朝鮮・台湾・樺太等多くの植民地を失った。しかし、多くの若き優秀な学徒を失ったことは、その比ではないと力説するのだった。
 
   敗戦によって、満州・朝鮮・樺太等から軍人・軍属・一般市民等が日本に帰ってきた。その数は数百万人と言われた。また、空襲で産業は全滅に近い状態となり、元陸軍少将が守衛となったり、空母赤城の艦長が小学校の小使いとなったり、世の中はひっくり返ってしまった。

    昭和23年に東大に入った人の話によると、授業は週に数回しかなかったという。教職員・学生等は食糧を求めて朝から晩まで東京近郊を走り回っていて、勉強どころではなかった。街では中国・朝鮮・台湾(彼らのことを第三国人といった)の出身は、日本の法律に従う必要はないと言って暴れまくっていた。また、街で見つけた元上官を数人で半殺しにする風景が時々見られたという。警官は何をしていたかというと、絶対数が不足していて全てに手が回らなかった。それでどうしたかというと、ヤクザに因果を含めて治安の維持の一部を任せたのである。江戸時代、幕府が経費節減のために十手をヤクザに渡したのと同じ方法である。


〇戦後の風景(一)
    私が40才くらいの頃、住んでいた団地の近くに十人も入れば満員になる一杯飲み屋があった。私は時々そこへ行って、昔話をしたものだった。

    その店でのママさんの話。戦後間もなく彼女は結婚した。相手は日本大学出身で、学徒出陣で軍隊に入り、パイロットとなって終戦が一週間遅れたなら特攻隊員として沖縄に突っ込む予定だったという。真面目な人でよく働き、近所の困っている人の面倒もよくみたそうである。子供が二人生まれ、狭いながらも楽しい我が家でママさんは幸福だった。しかし、昭和31年の経済白書が「もはや戦後でない」と書いていた頃、ダンナは夜帰ってきては「死んだ戦友に申し訳ない」と言って酒を飲んでは暴れだし、そのたびにママさんは二人の子供を連れて外に逃げ出したという。そんな毎日が嫌になり、離婚して女手一つで二人の子供を育てた。ダンナは特攻隊員だった頃、毎日のように沖縄目指して飛んでいき、先輩・同僚を見送り、次は自分の番だと覚悟を決めていたことであろう。そんな日常生活の中で、絶対に不可能と知りつつも、同僚と「もし生きながらえたら俺たちはどんな人生を送るんだろう」と夢を語っていたことだろう。実現不可能と思えば思うほど、夢は際限なく広がったに違いない。終戦となって東京に戻り、前述のように何とか安定した生活になると、特攻隊員だった頃に仲間と語り合った話が思い出され、戦友に申し訳ないと言って酒を飲んで暴れる以外に解決策を見出すことができなかったのであろう。彼女のダンナもまた戦争犠牲者だった。

 
〇戦後の風景(二)
    私の兄は昭和21年4月旧制盛岡中学に入学した。上級生が言うには、帽子の種類は何でもいい、とにかく帽子をかぶって来いとのことだった。当時は終戦直後で、中学生がかぶる帽子は売っていなかった。兄は、近所の海軍兵学校から帰ってきた人の家に行って事情を話したところ、「おめでとう」と言って帽子をくれた。その帽子をかぶって学校の近くまで行くと、通学途中の生徒の多くは「なんだ、あいつは」といった顔で振り返ったという。何しろ日本の最難関の学校の帽子をかぶって行ったので、注目の的になったのだろう。兄の話では下士官の帽子をかぶっている生徒が多かったそうである。帽子の話はこのくらいにして、大事なのは次である。兄に帽子をくれた兵学校帰りの人は、その後自殺してしまったという。

    昭和35年頃、盛岡の鉄道一家をモデルにした”大いなる旅路“という映画があった。三国連太郎・高倉健・中村賀津雄等が出演していた。中村賀津雄が演じる三男坊は、親の反対を振り切って予科練に入った。終戦で盛岡に帰って来て、盛岡の街中を暴れまわっていた。死を覚悟していたのに、ある日を境に平和だ、民主主義だ、主権在民だと言われたのでは、頭がこんがらがった。おまけに昭和21年1月には、天皇は神様ではなくて人間だったと言われては、混乱の極致に達したであろう。居酒屋で些細なことからチンピラと喧嘩になり、「この野郎! 俺たちは命を的に戦ってきたんだぞ!」と言ってチンピラや店の物を滅茶苦茶にする場面があった。当時そんな風景は日本の各地で見られたことだろう。戦後のある時期、渋谷一帯を支配した暴力団安藤組の組長安藤昇は、法政大学出身の学徒出陣組の一人だった。


〇終わりに
    今年、学徒出陣から80年ということでテレビや新聞は特集していた。テレビで雨の中、行進する学徒の姿は何度見ても胸がつまる。しかし、戦争に行ったのは彼らだけではない。多くの若者が行き、帰らぬ人となった。今次大戦で、約310万人の軍人・軍属・一般市民が死んだ。彼らの多くは死ぬとき、戦争なんか二度としてくれるなと思ったに違いない。我々は310万人の命の重みを背負っているのである。戦争は台風にように自然発生するものではない。戦争を企画し、決断する政府があるから起こるのだ。であれば、役にも立たないアメリカの中古の兵器を買って、国防だと騒いでいる低能な政治家の存在を許してはならないのだ。でないと、また我々は同じ誤りを犯すことになるだろう。

 

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