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召されて妻は天国へ

平成三十年十月十五日午前四時頃、電話が鳴った。この時間に電話が鳴るということは、妻が入院している病院からであり、妻の身に重大な事態が発生したのだと直感した。看護婦らしき女の声で「奥様の呼吸が止まりました。すぐ病院に来て下さい」と言う。二日前に医師から治療方法について説明を受け、よろしくお願いしますと言い、病室に妻を見舞い、また来るからねと言って帰ったのだった。
あれやこれや考えていてもどうしようもないので病院に向かい、午前五時過ぎに到着した。四階の六人部屋の妻がいるはずの部屋に入ると、妻のベッドだけがなくなっている。変だなと思っていると、看護婦が来て「こちらです」と案内してくれた。そこは個室で妻のベッドがあった。急いで妻の顔を見ると、明らかに死人の表情だった。妻の死は全く予想外だったが、妻は死んだのだと思うとこれからどうすれば良いのだと、途方に暮れてしまった。
妻の額に触れてみると、まだ暖かかった。死後一時間しか経っていないのだ。そのうち医師が来て、妻の死の状況について話し始めた。午前三時の巡回では異常なかったのだが、四時ちょっと前に異常が発見され、応急処置したのだが残念ながら助からなかったと言う。そんな訳で、死因は不明だが病理解剖すれば死因ははっきりすると言う。私は即答はできかねると言った。なにわともあれ、娘たちにすぐ病院に来るように電話しなくてはならない。娘たちにお前たちの母親は死んだとも言えず、「大至急病院に来るように」と言って、私は病院の入口で彼女らを待っていた。約一時間後に到着した娘たちは、私の表情を見て全てを察したのであろう。4階の病室へ急いで行った。その後ろ姿が何とも言えず、哀れでならなかった。遺体の前で次女はしくしく泣いていたが、長女はこの日が来ることを覚悟していたのか、黙ったまま言葉を発することもなく、亡くなった妻の顔をじっと見ていた。
やがて看護婦が来て保冷室に移していいかと言うので、「そうして下さい」と言って部屋を出た。「ここで待っていて下さい」と案内されたのは、エレベーター前の廊下のソファであった。そこは多くの人が通り、看護婦の詰め所があって、良く言えば賑やかな所であるが、精神的ショックを受けている我々には、看護婦たちの高笑い等々が癪に触って仕方ない。会議室でもなんでもいいのだ。遺族が静かに休憩できる部屋を用意してもらえないのだろうかと思ったが、病院に文句を言う元気はなかった。富山にいる妻の姉や私の兄弟に妻の死を知らせたり、忙しくしていると、若い看護婦が来て解剖をするかしないか返事をくれと言いに来たのには頭に来た。結論が出るのは親族が来てからに決まっているではないか。看護婦を怒鳴りつけたら、別な看護婦が来て「朝食はまだでしょうから、駅に行って少し休んできたらどうですか?」と言うのでそうすることにした。
富山の姉は、病院に午後一時頃到着する予定だというので、十二時半頃再び病院に来ることにして娘たちと別れた。一時半頃、霊安室で双方の親族は遺体と対面して妻の死を確認し、三時頃遺体とともに病院を出た。葬儀屋に行って細々と打合せしたが、寺持ちの坊さんを頼むと御布施は相場が六十万円で、フリーの坊さんに頼めば三十万円だという。私は即座にフリーの坊さんに頼むことにした。葬儀屋には登録している坊さんが何人かいるのであろう。「戒名はどうしますか」と聞かれたので「いらない」と返事した。紙切れ一枚に数十万円を出していられるか、というのが私の正直な気持ちである。聞くところによると、大都会の中小の寺の多くは廃業するか、坊さんはアルバイトをしたり、兼業しているのだという。最近の葬儀の八割は家族葬で、参加する人は十二・三人が普通で、坊さんを呼ばないケースもたくさんあるというのでは、坊さんの出番はなくなる訳である。ある宗教学者の書いた本によると、日本の葬儀費用は普通にやると約二百五十万円であって、それは世界各国の二十万円から三十万円と比較するとバカ高いそうである。都会の葬儀は全て一カ所で行われる。勿論、会食の部屋は隣室であるが、出棺といっても台車に棺は乗せられ、約三十メートル先の火葬場に運ばれて行き、棺は炉の中に入れられる。炉の中に入れられた棺を見て、これが妻との永遠の別れだと実感した。都会の葬儀はまるでベルトコンベアーで運ばれる如く、時間通りに進んで行く。昔はどんな小さな港でも、船が出る時は五色のテープが舞い、蛍の光が流れたものだが、今はそんな光景を見ることはない。世の中進歩して合理的になったのはいいが、情緒がなくなるのは残念である。妻の遺骨を受け取ると、葬儀は終わりで参加者達はタクシーで帰って行った。
私と二人の娘は、遺骨の入った白い箱を持って最後にタクシーに乗った。妻は発病以来、何度も家に帰りたいと言っていたが、ついに一度も帰ることなく、無言の帰宅となったのだ。

 昭和二十年八月、その頃妻の一家は満州の新京に住んでいた。勿論、妻はまだ生まれていない。八月九日、ソ連軍が満州に侵入してきた。新京の街は大混乱となったが、妻の一家は満鉄関係者とともに、とりあえずトラックで朝鮮目指して逃げることになり、集合場所に行った。母親は小さい子供二人がいるので、毛布を取りに家に帰って再び集合場所に行ったら、トラックは出発した後だった。途方に暮れて家へトボトボ歩いていると、知っている人が「一台トラックがすぐ〇〇方面に出るからそれに乗りなさい」ということで、とにかく日本に近づかなくてはとトラックに乗ったという。ある町でトラックを降り、街を歩いていると、偶然現地解散となった部隊から帰ってきた父親と出会い、それからは一家四人で逃避行を一年半に渡って続けたのだった。その間、ソ連兵に追われて二階から飛び降りたり、原野をさまよい歩いたのだが、その時道標となったのは力尽きて倒れた人たちの死体だったそうである。すごい話である。
 その頃、妻は母親の体内にいた。ソ連兵に追われ、十分な食糧もなく、原野をさすらい歩いても流産しなかったのは奇跡というほかない、と妻の母はよく言っていた。まさに妻は奇跡の子運命の子だったのだ。
 満州から帰ってきた人の話を聞いたことがあったが、その人が言うには「私は神も仏も信じない。もし神や仏がいて人々をあんな悲惨な目に合わせるなんて神や仏は悪魔だ」ということだった。

妻は昭和二十二年一月十七日、両親の故郷である富山で生まれた。妻の父は日本に帰ってすぐ農林省の役人となった。それで妻は小学校は茨城県の水戸で入り、その後小学校三回、中学校二回、高校二回と転校した。その転校先がすごい。水戸の次は大阪、大阪の次は三重等、七回も転校したという。入学から卒業までいたのは大学だけだった。新潟大学を出て中学校の教師となり、社会人の第一歩を歩み始めた。

妻の父は昭和五年から八年まで盛岡高等農林(現在の岩手大学農学部)に在学した。当時盛岡高農に入るには、入学試験を受けて入る組と各県の知事の推薦組と二通りあって、妻の父は富山県知事の推薦組だったからである。
昭和六年には満州事変があり、日本は大変な時期にさしかかった頃である。当時、富山から盛岡まで汽車で二日かかったそうである。妻は子供の頃よく盛岡の話を聞かされたそうで、大人になったら一度行ってみたいものだと思っていたという。人の縁の不思議さというか、運命のいたずらと言うべきか、盛岡出身の男と結婚することになろうとは、夢にも思わなかっただろう。結婚して最初に妻を連れて行った所は盛岡である。あれが岩手山、これが北上川、ここが石川啄木がこよなく愛した不来方城の城壁であると案内した。城壁には金田一京助の筆で、

不来方の
 お城の草に寝ころびて
 空に吸われ 十五の心

の碑が今もある。最後は盛岡高農当時の現存する校舎等を見に行った。盛岡高農は全国初の高農で、外国から輸入された教材・器具等は最初に盛岡高農で使用されたという。宮沢賢治は盛岡高農の卒業生である。広くゆったりした岩手大学の構内を散策して妻は何を思ったのか、
聞き忘れてしまった。盛岡の街は空襲で焼かれることがなかったので、妻の父が学んでいた頃とは大差なかったであろう。

 平成二九年九月二十五日、京都を三姉妹で旅行中、妻はホテルで脳出血で倒れ、第一日赤病院に運ばれて翌日手術して一命を取り止めたのだった。しかし、医師の説明では一生車椅子生活を覚悟した方がいいとのことだった。なにしろ左側の目・耳・手足は全く機能しなくなったのだ。
十月十九日、京都の病院から川崎の病院に転院した。京都の駅から私と私の娘、妻の姉二人の計五人で新幹線に乗ることにしたのだが、改札口に入ると駅員が一人一人の切符を見て、ホームへの行き方を説明した。二時間十分で品川に到着したが、品川の駅員は切符を見せろと言わず、我々の一行が改札口を出るのを見ているのだった。それは関西と関東の人情の違いかと思うと笑ってしまった。
病院では時々変なことを言うものの、日常会話は普通にでき、リハビリも順調にいっているようで、器具を付けながらも今日は六十歩歩いた、ある日は百歩歩いたと本人は喜んでいた。しかし、食事はおかゆから普通食に変わることはなく、なかなか体力は回復しなかった。
私の姪は医師である。彼女が言うには体力が回復するためには、まず筋肉を鍛えなくてはならない。そのためには少しでも手足を動かすことであるというので、おもちゃ屋に行って、木の棒やら球を買ってきて妻にやったのだが、最初は言うことを聞いていたのにすぐやめてしまった。医師の話では、脳をやられると喉も異常になり、普通食を取れるまでは時間がかかるだろうということだった。なにわともあれ、我が家の近くの病院に移れたのは大助かりだった。時々、明日は富山に行くから切符を買ってこいとか、音楽会に行くので介護タクシーを予約しておけと変なことを言っていたが、姉が見舞いに来るとほぼ正確に昔の出来事を話していた。医師の姪が言うには、時間が許す限り病院へ行って、手をさすったりほっぺたをなでたり、話しかけることが何よりの療養になるとのことだったので、毎週土日は病院に行ってラジオやCDを聞かせ、またある時は新聞を読んで聞かせたりした。娘たちは、洗濯物を持ってきたり持って帰ったりで、我が家は妻の看病で休日は大忙しだった。クリスマスの日には、病院特製のケーキを出され、妻はおいしかったとニコニコしていた。が、正月は職員の多くは休み、自宅に帰れる患者は帰って、ガランとした病院は寂しいものだった。正月といっても食事制限のある妻は病院で出す食べ物以外は食べられない。妻は「どうしてこんな目に遭うの」とか「京都で死線をさまよっている時、父が来てそっちに行っては駄目だ。こっちへ来いと腕を引っ張ってくれたおかげで一命をとりとめた」という話をしていた。
脳の病気の場合、病院には六ヶ月しかいられないという。ようやくリハビリも順調にいき、本人も回復に自信を持ちだした頃だったが、法律で決まっていると言われてはどうしようもない。三月に施設に移った。表面上は快適に見えたのだが、内情はひどいものだった。一日も早く家に帰れるよう、リハビリや食事等に十分気を配りながら運営しているというが、リハビリは形だけ、食事は限られた人数で多数の収容者の世話をしなくてはならないという事情があるにせよ、時間がくればさっさと片づけられる。介護度の五の妻は不自由な右手だけで食事をしなければならないので一時間はかかるのに、途中で片づけられるのである。施設に抗議したところ、方法を考えるとのことだったが、全く改善されなかった。
施設の費用は、個人負担が百五十万円で保険から月々三十万円出るそうである。したがって、施設としては介護度五とか四の人を収容すると儲かるということになる。その分大事にされるかというと全く逆である。当然のことながら、入居者の九割は高齢者で、車椅子で自由に動ける人が多く、妻のように寝たきりの入居者は数人だった。したがって扱いが粗末になるのはやむを得ないとしても、施設の実態を知ると唖然とせざるを得なかった。私は毎週土日は施設に行ったが、訪ねてくる家族はほとんどいないという現代版の姥捨て山のような所でもあった。
いつか評論家の森永卓郎が、父親のことを話していた。脳出血で倒れ、病院で治療とリハビリで元気になり、この分で完治するかと思われたのだが、六ヶ月後に施設に移され数ヶ月後に死んでしまったという。私はさもありなんと思った。施設には多くの問題がある。何と言っても人手不足である。低賃金・重労働で離職率が高く、十分な介護ができないという。が、入居者の家族にしてみれば、十分な介護ができないなら金をもっと安くしろと言いたい。しかし、施設に対して文句を言って、そんなら出て行ってくれと言われても行く所がない。黙っているほかないのだ。
川崎市は年間四万円の介護タクシー券を無料でくれる。六月初旬、妻を介護タクシーに乗せて約ニ十分程のところの小高い山の公園に連れて行った。新緑のいい風景だった。草原や土の道を私は車椅子を押しながら名所の案内板に書いてあることを説明したり、公園内を散策した。公園のある所は、アジサイの花が満開であった。そこへ行って、妻の不自由な右手をアジサイの花にさわらせた。妻はいつまでも花から手を放さなかった。私は退屈しのぎに中学生の頃流行した「あざみの歌」を歌った。三番の歌詞は

いとしき花よ なはあざみ
心の花よ なはあざみ
定めの道は果てなくも
香れよせめて わが胸に

思えばその時が妻と出かけた最後となった。                                                        
六月中旬、妻の容態は明らかに異常となったので、施設とかけあったのだが要領を得ない。姪に相談すると、施設に入る前の病院にはデータが残っているから元の病院に移せという。そのことを施設側に言ってもはっきり言わない。頭に来た私は、施設の責任者を怒鳴りつけた。東大の医学部を出た私の姪がそう言ってるんだ、と言ってはならぬことを言ってしまった。人相の悪い男に怒鳴られて恐怖を感じたのであろう。施設側は病院に戻すと約束した。
七月中旬、元いた病院に戻った。検査の結果、水頭症の手術をすれば、三月時点まで回復するだろうという診断だった。
七月下旬、手術のために脳外科のある病院に移った。手術の日は決まったのだが、直前に感染症が発見され、しかも全身に回っているので手術はできない。最悪の場合を考えてくれと医師に言われ、一難去ってまた一難である。二週間後、感染症は克服したので手術をすると病院から言われ、ほっとした。手術後は看護婦から「お名前は?」と聞かれてはっきりと自分の名前を言うし、何を感じたか子供の名前を言って「早くご飯を食べなさい」と大きな声で言ったり、今まで開かなかった目もぱっちりと開いているので、こちらはすっかり安心してしまった。次は口から食事をとる訓練が必要だと言うので、元の病院に移ってリハビリをすることになった。九月二十一日、三度目の転院である。
十月十三日、病院の説明では通常の方法ではうまくいかないので、別な方法でやる承諾書に判をくれと言われ、私はよろしくお願いしますと言って、医師の説明に納得して承諾した。その後、病室に寄って妻にまた来るからと言ったら、妻はうなずいて「はい」と返事をしたのだった。
ところが十月十五日早朝、妻の容態は急変し、天に召されたのだった。一年と一ヶ月の闘病生活は終わった。葬儀が終わって時々妻の入院していた病院や施設の前をバスやタクシーで通ると、ついこの前まであそこに妻がいたのだと思う。一瞬建物の中に入ってみたくなるが、すぐにもう妻はいないのだと思うのだった。昔の歌の文句じゃないけれど、「あの日も君も帰らぬものを」である。半身不随の妻は、五年生きようと十年生きようと寝たきりで何もできないのだ。と思うと本人は楽になって良かったろうとも思う。と同時に大きな声では言えないけれど、私もまた今後、五年十年の精神的・経済的負担から解放され、ほっとする思いになったことも事実である。妻が死んだ時、ある人に「時が解決してくれる。それまで辛抱するほかない」と言われたが、死後四ヶ月経ち、妻のいない生活に慣れてきた。人間は短い長いの違いはあっても、いずれ終局を迎える。死んだ人は我々にそのことを実感させてくれるのである。

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