ばぁちゃんのはなし。

死んだ人の話ばかりで申し訳ないがこれで終わりなので。前述のように、うちは共働きで家には父方の祖母が同居していた。鍵っ子ではなくばあちゃんっこである。(鍵っ子でもさして寂しいと思わない派w)ばあちゃんは大正15年生まれでがっつり戦争も経験している。ちなみに祖父の勲章(戦争から生きて帰ってきたのでそれでもらったものだと思っている。通信兵だったらしい)父親は満州生まれだそうだ。今となって興味が出てきたことも直接は聞けないのでそれだけは残念だが、そもそも子供の頃の話を飲んだくれの父が覚えている保証もない。話がずれた、祖母はその当時珍しかったらしい女学校出身(高校?)でその話をよくしていた。こちらも今は聞きたい話ではあるが、昔はねぇ、同じ話が面倒くさいだけだったなぁ。子供でもったいないことをした。保母さんだったことが自慢らしく、よく幼稚園児扱いされていたのを覚えている。思春期まっただ中の厨二病こじらせ男子だったのでいろいろと察していただけると幸いであるw連れ合い(祖父)は早くになくしたらしいが(戦地から五体満足でかえって来て酒の飲み過ぎで肝硬変で亡くなったらしい、たしか50くらいだったはず、血筋とは恐ろしい)そのかわりではないと思うが、ばあちゃんは娘たちの努力(病院?)の甲斐もあって98だかまで生きていた。まぁそうはいっても最後の方はほぼ記憶の中のタイムリーパーだったようで一番幸せだった女学生時代に戻っていたらしい。そうはいってもいろいろと我慢の人生だったらしく枕元に置いてあったノートには恨み言がぎっしり書いてあった。看病がしんどかったらしい叔母たちが無理矢理見せてきた(苦笑)そんなことでもないと見ることはなかったと思うのでいい経験である。人間って怖え!とは思ったが。その叔母もついこの間自分の母に会いに逝った、向こうでけんかしてないといいが(苦笑)まぁ無理だろうなぁ。祖母の思い出でといえば夏になるとあついからトップレスで表を出歩いていたこと。それはもう凄かった。漫画太郎先生の書くおばあちゃんだと思ってもらえばいいと思うwそれと、幼い頃風邪をひくとよく作ってくれたリンゴのすりおろしが大好きだったことを思いだす。ただすっただけのリンゴで酸化して色もよくなかったが大好物だったのを覚えている。あまりに好きなものだからこれを食べたいがために風邪ひきたいまであった(笑)ただ、少し大人になってからはリンゴが大根の水飴漬けに変わってしまったので、ばあちゃんにいらぬ知恵をつけたと思われるバラエティ番組は潰れて良し!(なんだかはしらない)みなさん聞きたいときに親(祖母)は無しなのでね、何でも生きてるうちに聞いておきましょう、きっと面白い話あるよ、多分。

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