積もる恨みと積み重ねる何かと④〜俺の歪んだ正義感〜

 書き始めると色々書けるが、単なるまとまりのない自己紹介になっている。このnoteでこの章は終わりたい。
 歪んだ正義感、自分なりに考えると、「上手くいかない自分を正当化するために正義という言葉を使う」ということなのかなと思う。
 歪んだ正義感で、敵対する人間の罵詈雑言を吐きまくった。相手を陥れようとしても、正当化を悪口でやろうという奴に手を差し伸べようとする人はそんなにいない。
 たとえ手を差し伸べてくれても、正義に目がくもってる奴の言葉は罵詈雑言ばかり、普通の人なら嫌気がさすだろう。
 そんな時期に目の前から去っていった人もいるし、そうでなくても、「お前が悪いんじゃね?」というふうに逆効果の印象を持った友人もいた。
 まさに天に唾することそのものである。
 今はそんなことはなくなり素晴らしい人間に・・・というわけではない。
 なるべく人前でその話はしないようにしても、Twitterではついつい本音を出してしまう。
 このTwitterは当時の俺の呪詛に付き合わされた人も見ていて、そういう事を言っている自分を見ていい気分はしない。あいつまだそんなこと言ってんのかと。
 そして当時の構成員のTwitterアカウントも見つけてしまった。
 彼らからすると俺を潰したのは「気に食わない、間違った事を言った奴をやっつけた」という成功体験なのであろう。
 だから最近でも遠回しの嫌味を彼らが見ていること前提にツイートしたりしている。
 でも、そんなことは一瞬の麻酔のようなもので、一瞬溜飲が下がるがまたイライラして言い出す、ひどい時には悪口を連発する。まるで麻薬がやめられないジャンキーのように。
 そして何より、これから出会う人の可能性も狭めてしまうのだ。
 後ろ向きな嫌な事を言っている人間についてゆく人間などおるまい。
 人を正義感の元にこき下ろすことなんて、エセ正義でしかない。
 恨みは消えない、でも表に出るとその刃は回り回って自分を刺してくる。
 ではどうすればいいのかと考え、思ったのが、恨みは持っててもいい、けど、四六時中撒き散らすなということだと思う。
 相手を執拗に攻撃したところで、なかなか相手にダメージなんか喰らわせられない。それこそ実力行使か、法的措置くらいしかないだろう、そこまでいくのはなかなか難しい。
 ならば相手のことを考える時間を減らすことが有効となる。
 呪詛をやめる、なるべく話題にしないことを意識する、これだけでもだいぶ楽になった。
 そして何より大事なのは、もっと考えるべきことがあるだろうということ。
 

エセ正義感で相手を叩いてたせいで、本来友人になるべき人、友人でいてくれた人が消えた。
呪詛を吐くのに使ってた時間をそれこそナンパでもダイエットでも自分を磨くことに使っていたほうがよっぽど有意義だったしいい結果が出ていたと思う。

そう思うようになった。

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