春愁
夜の眠りが浅くなっていた。
窓辺に置いた花瓶に、もう水は入っていない。
ベランダに出て、夜風にあたって、
明日彼に言うための、さよならの練習をした。
卒業、した。
36ヶ月。1065日。
長くて、深くて、眩しくて、一瞬な
3年間が過ぎていった。
終わってみれば早いものだなといつも思う。
思い入れ、というのは
意外にも少ないものではあって。
後悔がないわけではないけれど、
掬いにいくまでのものでもなかったか、なんて。
振り返ってみると、たくさんの忘れ物がありました。
手を伸ばしても届かなかったもの、
少しの気持ちで変えられたこと、
失くさずにすんだもの、色々でした。
音楽が大好きでした。
五線譜、飛び越えて重なる四重奏、
他人からの刺激に押し出されるように溢れてくる言葉、フレーズ、ペン先で紙面を汚して、形のないものを象っていくその光景に、溺れて溶けてはまた紙面に文字を綴る日々のなかで、
ふと気がつくと、そこには誰もいないことに気が付きました。
慣れてくると、それもまた心地がいいものでした。
そんな時間もまたすぐに過ぎ、音楽から少し離れ、みんなのいう"普通"の人間になったころ、
窓辺で花を見ている彼と、話がしたいと思いました。花のような人でした。
彼が大好きでした。
あまり書き遺すようなことはありませんでしたが、繊細で、透けるような彼は、傍にいるようでいない、幽霊のような人でした。
黒檀の長い前髪の隙間から、時折見えた伏目は
いつもどこか遠くを見ていました。
「春がきたら、花を見に行こう」
窓辺で呟いた彼は、
もう今は、此処にはいないけれど。
それからの日々は、再び紙面に向かって。
彼と、景色と、音楽を綴りました。
それも今となっては懐かしいと感じてしまうくらい、時間が経つのは早いのだなと感じます。
卒業式の日、彼にあうことも、
さよならをいうことも、叶うことはなかったけれど、
きっと、またどこかで会えたら
「春、遠からずとも」
きっと、花を見に行こう。
1歩先の白線が見える。
今までの生活、全て忘れてしまっても
変わらない今日の気持ちで、
またみんなにも会えたらいいな。
窓辺の花瓶に、水を注いで。
あの日の花を一輪。
開きっぱなしの窓とその枠上に
流れる夜風に揺れる花弁に
あの日伝えられなかった言葉をひとつ。
さよなら
と、呟く。