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#40. 色弱とはどんなフィルター?

「色弱」ってご存知ですか?日本人男性の約5%、女性の約0.5%がもつ、一般の方とは少し異なった色の見え方がする遺伝的な特性の事です。

日常生活で困る事はあまりありません。信号や服の色や草木の色も識別できます。赤を見れば「赤」と答えます。
ただ、95%の人とは若干違う見え方をしているため、たまに「あれ?感覚が人と違うかもな」と感じることがあるかもしれません。
微妙な色調が人とはちょっと違うだけなのです。(人によって程度差はありますが) 
例えば、赤のLEDポインターが見にくい、赤背景に緑字で書かれると見にくい、麻雀のチーソーに緑色が混ざっている事を知らなかった等という事が起きます。
致し方ない事ですが、この世界の人工物は、95%の人々にとって識別しやすいように作られていますので、気付かないけれども識別出来ていないという事は起きていると思います。
95%の人とは、同じ赤も実は異なる色調で認識しているのです。面白いですよね。

私は小学生の時に石原式色覚検査を受け、赤緑色弱と判断されました。おかげで無駄な挑戦をせずに済みました。
と言うのも、工業系の高校ではカラーコード抵抗の抵抗値はカラーバンドの色を識別して読み取れなければならない為、微妙な識別が出来ない私には超えられないハードルだったのです。予め知っておく事で別の道を選ぶ事が出来ました。また、私の場合はそもそも頭が良くありませんから、はなからなれませんが、グラフィックデザインや試薬の色の判別をする医療業界、化学反応をみる化学者なども難しかったでしょう。
検査をしてくれていた時代に感謝です。

実は、先日、色覚を補正するメガネを手に入れ、妻と広い公園に行ってきました。
一番の感想は「花ってこんなに鮮やかで美しいんだ」です。私は50余年の間、人が言うほど草木に感動した事はありませんでした。「ああ、また大袈裟に言ってら〜」と言う感じです。
補正メガネをかけて見た世界は鮮やかで赤い花、青い花がとても美しい。とくに桜は予想していたよりもピンクで、なんと美しいのでしょう。
逆に緑は若干薄れて見えましたが。
美しいものを妻と同じように美しいと感じられる、とても良い体験をしました。

誰しもが世界を「フィルター」を通して見ています。このように遺伝的に備わったフィルターもあれば、生きてきた環境が育てあげたフィルターもありますね。

ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、日本における学校での色覚検査は、明治時代の終わりごろから学校健康診断の一環として導入され始め、1970年代に入ると、色覚検査が生徒に与える影響(特に職業選択に対する制限や社会的なレッテルや偏見・差別感情)についての懸念から、徐々に学校での実施が減少しました。特に1975年頃には、ほとんどの学校で色覚検査が廃止されるか、実施されなくなりました。
2003年に、文部科学省が学校健康診断の指針を改訂し、色覚検査を含めるかどうかを学校に委ねる形で再度取り入れられるようになったのですが、この改訂は、色覚異常の生徒に対する支援や適切なキャリアアドバイスを提供することを目的としていたようです。

暫くの間、日本に於いて検査が行われていなかったのは、本当に残念な話です。
本人が自分の特徴に気付かずに生きていく、訳のわからぬ差異をどう受け止めたのか、私は心配でなりません。差別感情が云々言うのなら、事実は本人だけに知らせ、公開はしないという選択肢を教育委員会は何故取らなかったのでしょうか。
色覚検査をやらない判断をした教育委員会には一言申さねばならないと怒りにも似たものが沸々と沸いてきます。

さて、ここからは想像ですが、私なりに理由を考えてみました。

1. 実施の複雑性:学校や教育機関が保持する情報の取り扱いには高い注意が必要であり、情報が適切に管理される保証が求められます。これには、適切なシステムやプロトコルの整備が必要であり、その準備や維持には多大な労力とコストが伴ったことが想定されます。
2. 教育的支援への影響:色覚検査の結果を完全に個人のものとして扱うと、教育者が必要な支援を行う上での情報不足につながる可能性がある。特に、視覚に基づく教材の使用や活動の計画において、これらの情報が必要になる場合がある。
3. 社会的認識の欠如と資源の配分:過去には色覚異常に対する社会的な認識が不十分であり、その重要性が低く評価されていた可能性がある。その結果、教育委員会がこの問題に対して積極的な対応を取る動機が不足していたとも考えられる。また、教育資源の限られた中で、他の教育的優先事項が色覚検査のような特定のニーズに対する対応を後回しにしていた可能性もある。
4. 政策決定の過程での課題:教育政策は多くの場合、広範な意見やデータに基づいて決定されるが、それには時間がかかることが多い。色覚検査のような特定の領域に対する政策が適切に調整されない場合、それは政策決定過程の課題や意思決定者間の意見の不一致を反映している可能性がある。

このように考えていくと「色覚検査をやらない判断をした教育委員会に物申す」という私が嘗て持っていたフィルターは、多面的に世界を眺める事で、怒りから慈しみに変わっていきます。

一枚のフィルターしか持っていないのは、この世界を生きていくには辛いものになる事が多いでしょう。幅広い時間、空間、関わる人達という軸を駆使したフィルターを私達が持てれば、きっとより良い世界に進んでいけるのだと思います。

このブログを通して皆様も「誰の目の前にもフィルターがある」という事を思い返すきっかけになれば幸いです。

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