【要約その①】アクティブ・ラーニングとは何か 渡部淳

これは要約であり、僕の考えではありませんのであしからず。

はじめに

アクティブ・ラーニングとは「プレゼンテーションやディスカッションのようなさまざまなアクティヴィティ(学習技法)を介して、学習者が能動的に学びに取り組んでいくことを指す言葉」である。

それぞれの時代の主要な授業スタイル(授業定型)が、その時代を生きる教師や子どもたちの知のあり方だけでなく広く社会のあり方にまで影響を及ぼすと著者は考えている。

第1章 授業改革からアクティブ・ラーニングへ

”チョーク&トーク”

”チョーク&トーク”型の授業は、明治時代から変わらない教室の原風景とでもいうようなものである。

そんな”チョーク&トーク”に代表されるような知識注入型授業の最大の利点は、その効率性にある。
精選された系統的な知識を、限られた時間でたくさんの生徒に伝えるのにとりわけ効果的な方法が知識注入型授業。

その反面、生徒の方は与えられた知識の咀嚼に追われて結果的に受動的な姿勢になりがちである。

東アジア型の教育システム

上記のような教育システムはなにも日本にかぎったものではない。
知識注入型授業の比重が高いのは、韓国、中国、ベトナム、シンガポールなど東アジア諸国の教育でも多かれ少なかれ見られる傾向である。
このような「東アジア型の教育」に代表される特徴が以下の5点である。

①検定・国定教科書で細部まで統制された教育内容
②知識の質よりも量や計算のスピードが重視される受験システム
③チャンスが一回限りの排他的で激しい受験競争
④受験競争の大規模化、低年齢化
⑤一クラスあたりの生徒数の多さ

もちろん英語圏であっても、”チョーク&トーク”型のような講義形式の授業運営も行われている。
しかし、そのバランスを見たときに、日本のように授業がもっぱら”チョーク&トーク”で運営されているのかと言われれば話は別である。
知識を身につけることを超えて、身につけた知識を応用しながら、自らの知を更新していくこと。そんな「学び方」の習得も同時に進めていくという観点が英語圏にある教育観だといえる。

そのような課題があったため、1990年頃から知識注入型の授業から、獲得型の授業へ授業の比重をシフトしていくことを著者は主張し始める。
ここでいう獲得型授業というのは、自学のトレーニングと参加・表現型学習のトレーニングを日本の柱とする学習指導システムのことである。

しかしながら、なぜ日本は知識注入型の授業の比重が高くなってしまうのだろうか?
その理由はひとつではない。先ほどあげた5つの要因が重なり合った結果、このような効率性を重視した授業スタイルが定着していると考えられる。

ここで注目しておきたいのが、授業スタイルはすぐに変えることができるだろうと思われがちだが、話はそう簡単なものではないということだ。
そもそも、授業スタイルがあって、教育システムがあるのではない。教育システムによって教育スタイルが大きく規定されてしまうのである。
つまり、授業スタイルの改革を求めるのであれば、教育システムの改革がまず行われなければならない

ちなみに、このような一斉講義式の知識注入型授業は、これまで見てきたように東アジア、とりわけ日本の伝統的な教育スタイルだと思われるかもしれない。
しかし、稲垣忠彦によれば、19世期にアメリカから伝わった一斉授業法が公教育の支配的な教授形式になったのである。
つまり、近代学校の成立とともに海外から輸入された教育スタイルなのである。

学習指導要領の変遷

戦後の教育改革と授業スタイルの関係は、ほぼ10年ごとに改定される学習指導要領に大きく規定されてきた。
その中でも注目すべきなのが、問題解決学習と系統学習(科学的知識などを学問体系に則して子どもたちに教授する)の間で、方針が揺れ動いたことである。

戦後間もなく、文部省は教育の目標や内容、方法について考える手引きとして「学習指導要領(試案)」(1947年)を作成した。
この試案の基本スタンスは、「各学校が自主的に教育課程を作成し、子どもの生活経験に即して学習課題を設定する」というもので、方法としては問題解決学習が採用されたことになる。
しかしながら、1950年代半ば以降で学力の低下に対する批判、子どもの問題行動の増加を背景にして、戦後新教育の柱ともいうべき「生活単元学習」や「経験主義」の教育方法などに批判の矛先が向けられる。

そして、法的拘束力を持つようになった1958年の学習指導要領では、教育内容を精選して教えるいわゆる系統学習に転換していく。
ところが、早くも1960年代半ばには、系統学習が知識注入的指導の偏重や学習意欲の減退を招いているなどの批判が生まれる。
さらに、1968年の学習指導要領改訂とともに、詰め込み教育による「落ちこぼれ」が社会問題化することになった。

その結果を踏まえて、1977年の学習指導要領ではゆとりある充実した学校生活の実現が目指される。
しかし、1980年代は、校内暴力や家庭内暴力、いじめ、登校拒否、非行などの問題が頻発し、「学校の管理主義」が進んだ時代でもある。
また、1980年代は国際化や情報化が進んだこともあり、海外の教育事情が日本に流入し始める。
その延長線上に1989年の学習指導要領の「知識・理解、技能」だけでなく「関心・意欲・態度」が重要だとされる「新しい学力観」の登場、「ゆとり教育」で悪名高い1998年の学習指導要領での「学習内容の3割減」、そして
「総合的な学習の時間」の創設がある。2018年の学習指導要領で登場した「アクティブ・ラーニング」もこの延長線上に位置付けられるといえるだろう。

このようにざっと学習指導要領の変遷に目を通すと、「振り子」のような揺れを繰り返したと喩えられるとおり、戦後の教育行政が大きな方針転換を繰り返してきた様子が見て取れる。

その変遷をまとめてみよう。


戦前:知識注入型授業(知識重視)
戦後:問題解決学習(経験重視)
1950年代半ば〜:系統学習(知識重視)
1970年代後半:ゆとりある学校生活の実現へ(経験重視)
1980年代〜:「新しい学力観」「ゆとり教育」(経験重視)
2000年代〜:ゆとり教育批判へ(知識重視)

このように、大別して「知識」か「経験か」という二極へ揺れ動くさまが見て取れる。
しかし、実際にはやはり知識注入型の授業が定型の教育スタイルになっているいう事実は変わらないだろう。

学習システムの改革

これまで見てきた学習指導要領の変遷からもわかる通り、近年特に取り上げられている生徒の「主体性」を重視するような内容の学習指導要領が出るのは、2018年版の指導要領が初めてではない。
特に注目されるべきなのは、1998年版の指導要領に登場する「総合的な学習の時間」とアクティブ・ラーニングのつながりである。

「総合的な学習の時間」のいちばんの特徴は、時間が設定されているものの、内容についての規定がなく、それぞれの学校が自由に内容をデザインすることになっている点である。
もちろん、子どもたちの「探究活動」や「体験学習」を重視することなど、学習の方法や形態について一定の注文がつけられてはいる。しかし、その内容については各学校に一任されているのである。
言わば「空っぽの器」が総合的な学習の時間だ、ともいえる。

さて、その「総合的な学習の時間」導入のねらいは次のようなものである。

①「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」
②「学び方やものの考え方を身につけ、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること」

そのほか、「問題解決的な学習」を積極的に取り入れること、グループ学習などの多様な学習形態を工夫することなどが必要とされている。

このような条件から、「総合的学習の時間」のコンセプトに「プロジェクト学習」のエッセンスが盛り込まれていることがわかる。
キルパトリックによる「プロジェクト学習」がよく知られるところではあるが、現在はキルパトリックが定義するものよりも広い意味でこの「プロジェクト学習」は用いられる。
具体的には、「学習者自身が課題を設定し、リサーチワーク(調べ学習)をおこない、その成果を報告書や作品にまとめ上げるタイプの学習」が「プロジェクト学習」である。
また生徒の主体的な活動や体験的な活動を組み込んだ一連の学習活動とそのプロセスを表すためにも用いられる。

注目すべきは、その「総合的な学習の時間」の配当時間である。高校卒業までの時間で総計749〜948時間という時間が割り当てられている。
この配当時間を見るだけでも、「総合的な学習の時間」がいかに思い切った施策であったのかがわかるだろう。その反面、知識注入型に慣れ親しんだ教師の側から見れば、現場の状況をはるか後方に置き去りにした提案とも見えるものだった。

では、「総合的な学習の時間」からアクティブ・ラーニングの提唱までにはどのようなプロセスがあったのだろうか。

まず、きっかけとなったのは、小中高ではなく、大学教育の改善を目的とする中教審の「質的転換答申」(2012年)である。
この答申は以下のように提言している。
「生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し、解を見出していく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である」

では、どのようにすればこの「転換」が可能になるのか。答申では「ディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業」が例示されている。

このように、まずは大学教育の改善として「アクティブ・ラーニング」が提唱された。その後、2016年の中教審において、この教育改革のターゲットが、幼稚園から高校までの全て校種に及ぶことになる。
その中でも注目されるのが、学び方の改革である。つまり、何を学ぶかだけでなく、どのように学ぶかというプロセスが重要であるという視点から、アクティブ・ラーニングへの移行が求められているのである。

先ほど、学習スタイルの改革にはまず学習システムの改革が必要だと述べた。これまでの学習指導要領ではもっぱら学習内容にのみが問題にされてきており、指導方法については大きく触れられていなかった。
しかし、2018年版の学習指導要領により、学習システムそのものの改革が初めて提起されたのである。これだけ見ても、大きな転換点に差し掛かっていることがわかるだろう。

アクティブ・ラーニングに向けられた批判

とはいえ、現場の教師の今回の学び方改革への反応はさまざまに分かれる。もちろん肯定的に受け止める傾向も見られるものの、批判的な意見も多い。代表的な批判は以下の通りである。

・授業準備や授業後の評価作業の労力が従来の授業以上にかかるという懸念
・教員の多忙化による働き方改革と両立できるのかという問題
・具体的なアクティブ・ラーニングの全体像が見えないことから、浸透しないまま結局終わるのではないかという懸念
・校種が上がるにつれて導入が難しいと感じること

そのほか、研究者側の意見として、


・指導と評価を一体化させることで、かえって評価のための授業になってしまう恐れがある
・アクティブ・ラーニングの目的が「企業社会で活躍できる人材の育成」といった新自由主義的人材育成論に収斂されてしまうのではないか
・環境条件を整えずにアクティブ・ラーニングを導入することで学力格差がさらに広がるのではないか


というような危惧がされている。

アクティブ・ラーニング導入の課題

このような批判があるとはいえ、国際的な背景などの要因や、先ほど見たこれまでにない学習システムの改革等から、アクティブ・ラーニングの導入は不可逆的に進んでいくだろう。
しかしながら、日本においてアクティブ・ラーニングを導入するにあたって、克服しなければならない点は多くある。
例えば、環境条件日本的な価値観に基づいた人々の意識、またこれまで見てきたような歴史的な経緯などがそれである。

その中でも、学びのプロセスをデザインし、効果的に運営できるように、教師側および生徒側の条件を整える必要があるだろう。
そのための重要なツールが「アクティビティ(学習技法)」である。次章以降でこの「ツール」について見ていくことになるだろう。

続く

おそれいります、がんばります。