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技巧ではなく、奇をてらわず

私は、三年前から、勾玉型の「真琴」という琴を弾きながら、ご神前にて祝詞や和歌を歌いおろす、ご奉納をさせていただいている。

不思議な流れで、公的にご神事としてさせていただく機会に恵まれることもあるし、
どなたかと、別の楽器と共に、共奏させていただく機会もあるが、

たいていは、私的にご縁あり参拝する寺社で、人目の妨げにならぬ境内のすみで、木々の緑や風に感応しつつ、
ひとり、ひっそりご奉奏させていただくことが多い。
それは、ひたすらな至福であり、果報なことと思っている。

もともと富士山麓で生まれ育ち、不思議に大和古事と古代和歌に惹かれ、その道の研究に入り、頻繁に奈良に滞在し、短歌を同人として学び。
楽器が好きで、究めることはなかったが、琴や横笛、マンドリン、また観世流能楽を長く習い。
宮仕えや門跡寺手伝いなど、有職故実の機会に恵まれてきて。

私は人に指導するのは苦手なのだが、古文や古典芸能を、わかりやすく親しみやすく、書いて伝えるのは好きだったし、
奈良を訪れるたびに、目に見えず耳に聞こえないけれど、古代より息づくとおぼしき大和独特の響きのようなものを、なんらかの方法で伝えるつとめを果たしたいと、
いつからともなく、心に願うようになっていた。

手に持って旅をし、どこででも奏でられる、この琴と出会い、初めて旅先の崇敬神社のご神前で奏でた際に、
あぁこれこそ、今こそ...と、心に深く落ちる思いがあった。
その土地の氣とひとつになり、その響きを琴が、私の指を媒体にして、伝えてくれる。
やがて和歌の流れとして、口から歌がこぼれ落ちるようにもなり。

それまで、書き記すことしかできなかったことが、
琴あればこそ、表現として叶うことであったと...腑におちる思いがした。

さまざま、経験し身につけてきたものの、究めてきたわけではないから、
奏者としても、わざをぎとしても、歌人としても、決して誇れる技巧は持たないし、ことさらに美しいみてくれでもなし、批評対象にはならないものと思っている。

ジャッジされる次元のものではない。
ということは同時に、芸術技術として評価されるものではない、地下的なものと言えるかもしれない。

もとより、私が伝えたいのは、私の巧みな技術ではなく、才を誇るためにやりたいのではない。

真琴という楽器は、奏法に決まりはなく、教室などもない。
もともとの響きが美しいゆえに、持つ者が自由に、それぞれが適したやり方で楽しめるようにできている。

すでに真琴でプロの演奏活動をなさるかたもいるし、スピリチュアルやヒーラーとして活用するかたも、美しい歌や舞と共になさるかたもいて、
もちろん技巧は凝らされているが、それは個性の域であって、
千人千様、有名無名、それぞれである。

真琴ニストと呼ばれても、「真琴」という楽器には枠がなく自由で、それゆえにこの楽器ならではとされるような、縛りや規定は、本来はない。

巧く弾こう、綺麗に聴かせよう...などという作為を持たず、音に任せて心を委ねられるところが、私は気に入っている。
創作竪琴は昨今、多いけれど、私にはこの琴が最も魂に共鳴し、おそらく他の竪琴では叶わなかったと思っている。

私は「琴」という弦楽器の形状に、古代の祭祀に使われた、古代大和琴の響きをみている。
もともとは弦を響かせて鳴動させるものだったろうから、今の琴のような美しい調べではなかったと思う。ただ、張り方や弦の太さ細さなどで、音の高低や響きの異なりはあり、
視覚的な色と同様に、現代人には認定できない、音ではない響きがあって、
それが神を招き、魔を退ける、異界異次元との共鳴共振による「マツリ」に不可欠だったろう。

時にそれは強大すぎて、琴弾きの命ごと連れ去るほどの、響き...

記紀にみられる神託の場は、琴弾き、巫女、審神者の三者でおこなわれるけれど、
現代の私は、それらを、ひとりでやっている。
そのぶん、即物的で、そこまで尊いものではないはずだ。
当時の再現はすでに現代では誰にも不可能だし、まともにやったらひとりの命で済む話ではないくらい危険なことだとも思う。
ある程度「マツリ」を学んでいれば、そのくらいはわかる。

真似事であっても、琴の音とその土地との感応が叶えば、それを和歌のような形で響きに表すことはできる。
また、古代や謡曲のような物語をわかりやすく語るにも、ただ語るより、琴の音がある方が親しめるように思う。

どのように思われたとしても、これが作為も技巧もない、私が本能的におこなっている「琴弾き語り」。
生涯、琴と共に、巡礼の旅を続けたいと念じている。

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