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自分だけは自分をあきらめない

どうすればいいかわからなくて、動けなくなっているより、
どうなってもいいから、動いてみる方がいい。

これは、当たって砕けるつもりで、高望みに思えた進路を決め、
初めて希望を叶えられた、二十歳の頃の、決意表明だった。

今現在の自分が理想と違う形だったとしても、
どこかで間違えたとか、戻ってやり直したいとか、まるで考えつかないのだから、
たぶん、今の自分で正解の方向を向いているのだと思う。
少なくとも、やりたいことの大半は、経験できてきた。

思えば、今、手の中にあるものの云々はともかく、絶望的に失ったものだけはないのだから、それだけでも恵まれている。

これまで精神的な壁になっていたトラウマも、これからは自分次第で取り除ける可能性はある。
やり直せること、出会い直せる縁も、これから次第。

...自分で望むことがすべて不可能と断定され、親の手に縛られていた頃に、出会った先輩がいる。
並外れた才能や能力、美しい姿態と、どんなものにもなれる可能性に満ちていらしたのに、
難病によってそれらを奪われ、出会って半年後に、早逝された。
その先輩と、死の前に話す機会があったことから、葬儀の最中に思った。

叶うはずのことが、命の限界により叶わぬ人がいるのに、
叶わぬと決めつけられたまま、のうのうと長生きできる自分は、なんて申し訳なくもったいない...

その思いから、親の意向を生まれて初めてはねのけて、当たって砕けることに賭けてみたのだった。

今現在も、成果が結実できていないし、不安定なままで、親からも責められ続けている。
でも、これまでのすべてが無駄だとは思わないし、思えない。
血を吐くほどの苦悩と痛みの記憶も含めて、今の自分にはまだ先がある。
終わりではない、まだ過程だと思っている。

もう遅すぎるとは思わない。
けれど、まだ早いとも思えない。

これまでのことを、今この時に活かさなければ、この先はないところまで来ていると感じる。

大成せずとも、伝わるべき人に伝わることを、やり遂げておきたい。

五年前に琴に出逢い、改めて筆を執るきっかけも得、これまでのことを発出するすべを得た。
おそらく、またこれからが勝負時な気がする。

来年は、ためらって立ち止まり考えるより先に、何も考えずに実現してみようと思う。

失敗より、中傷されることが怖かったけれど、それももう考えない。
誰とも違う孤独を、もう恐れない。

個性が個性と出逢った時、そこに世界が生まれる。
その可能性をこそ信じたい。

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